朴趾源

2011-03-18

朴趾源(パク・チウォン)は朝鮮時代後期の実学者です。
特に随行員として清に行った時の様子を綴った紀行記「熱河日記」は、当時の朝鮮社会に大きな波紋を投げかけました。

朴趾源は1737年2月5日、代々ソウルに暮す名門家に生まれ、早くに父を亡くし、祖父のもとで成長します。
30歳の頃に実学者の洪大容(ホン・デヨン)と交流し、それを契機に西洋の新学問に目を開くようになります。
そしてその独特な文体と斬新な思考で小説「両班伝」を執筆します。
この小説は貴族階級である両班(ヤンバン)に対する鋭い風刺が特徴で、自分の学問にだけ専念し家族の扶養には無関心な貧しいソンビ(学者)と、金を使って両班の身分を手に入れたものの、上っ面だけの両班の暮らしに嫌気が差し、また平民の身分に戻る商人が登場します。
この自由で奇抜な文体と両班に対する痛烈な批判は、多くの波紋とともに新鮮な風を巻き起こし、彼を慕うソンビが生まれます。
この朴趾源を中心とする学派を北学派と呼び、清の進んだ文物を積極的に受け入れることを主張します。
しかし清による2度の侵略(丙子胡乱、丁卯胡乱)によって、朝鮮内には清に対する反感が根付いていました。

そんな時に朴趾源は1780年6月、従兄弟の朴明源(パク・ミョンウォン)に従い清への使節団に加わり北京に行きます。
10月末に朝鮮に戻ってくるまでの5ヶ月間、彼は清の地で貴重な経験をします。
そのときの様子をまとめたのが26巻10冊でできた紀行記「熱河日記」です。
清を通じて西洋の文物を取り入れようとした朴趾源でしたが、当時の朝鮮の社会では受け入れられず、性理学に反する不穏な思想と文体だと非難されたまま1805年にその生涯を終えます。
時代の先を行く先駆者だった朴趾源は時がたつほどその評価も高まっています。
特に「熱河日記」からは時代的な偏見から抜け出し、事物を新たな視線で認識する本物の知識人の姿勢がうかがえます。

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