• 美しい画家 李仲燮 ~絶望の中で希望を叫ぶ~

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  • 2016年は、韓国近代美術の先駆者、韓国人に最も愛されている画家とされる李仲燮(イ・ジュンソプ)の生誕100周年になる年です。日本による植民地支配時代に生まれた彼の人生は、日本人女性との結婚、祖国の解放と韓国戦争、愛する家族との別れなど、波乱に満ちていました。しかし、いくら大きな試練があろうと李仲燮は絵を描き続けます。その理由は一つ、家族を想う心でした。画家、李仲燮の人生と作品を振り返ると、その中心にはいつも「家族」がいます。

    大地主の末息子に生まれた李仲燮。彼は5歳の時に父親を亡くし、母親の実家がある現在の北韓、平壌(ピョンヤン)へ向かいます。母親の実家で暮らすことになった幼い李仲燮は平壌で発掘された高句麗時代の古墳壁画に魅了されました。そして、この時の経験は、後に画家となった李仲燮に大きな影響を及ぼします。たとえば1955年に描かれた「歓喜」という作品の中央には、雲に包まれた太陽が、その左右には一番の鶏が描かれています。鶏は鳳凰のようにも見え、高句麗の壁画のような模様が額縁のように絵を囲んでいます。



     1923年、小学校に入った李仲燮は西洋画家の父親を持つ友人に出会います。李仲燮は親友の家、特にアトリエで遊びながら画家になる夢を育んでいったのです。そんな画家になる夢が具体化したのは、1931年、高等普通学校、今でいえば中学校に進学してからのことでした。五山(オサン)高等普通学校にはアメリカのイェール大学で美術を専攻し、パリで活動したこともある先生がいたのです。中学校で民族意識の強い先生たちに教えを受けた李仲燮 人は、後に独自の画風で韓国の情緒を表現するようになったのです。

    中学生の頃、授業が終わると、日が沈むまでじっと牛を見ていた李仲燮は、周りから変人扱いされていました。民族意識の強い李仲燮は牛のイメージに韓国人の精神を重ねていたのです。50年代始めに描かれた彼の代表作の一つ「白い牛」は白と黒の太く短い線で、今にも突進しそうな牛の姿を描き出しています。また、同じ時期に描かれた「黄色い牛」では火がついたような赤い背景に、何かを訴えているような牛の姿を見ることができます。彼は牛の姿を通して国を奪われた韓国の人々の怒りと悲しみを映し出しているのです。



    1935年、李仲燮は日本に渡って本格的に美術を学びはじめます。ここで彼は同じく美術を専攻していた日本人女性、山本方子(やまもと・まさこ)に出会います。民族意識がとても強かった李仲燮ですが、自分の作品や素材について興味を持つ日本人の方子に魅力を感じました。しかし、日本の真珠湾攻撃によって勃発した太平洋戦争で、李仲燮が家族のいる韓国に戻ることになります。彼は日本に残してきた方子住所と絵だけが書かれたハガキを送り続けます。彼の想いが伝わり、山本方子は、1945年、玄海灘を渡って韓国にいた李仲燮と結婚します。李仲燮は日常生活の中で絵の素材、画題を見つけ出していました。新婚生活を送りながら飼っていた鶏も後に「夫婦」という作品のモチーフになっています。それは、嬉しい時も悲しい時も同じでした。1946年、李仲燮は、1歳の長男をジフテリアで亡くしています。子どもが亡くなった日、李仲燮は、息子が一人で向かう天国への道が怖くないように花や桃に囲まれて戯れる子どもたちの姿を描いた絵を棺桶に入れました。長男を亡くした後、二人の息子に恵まれた李仲燮に、1950年、再び大きな波が打ち寄せます。

    韓国戦争勃発。李仲燮は、戦禍を避けて家族といっしょに釜山を経て、済州島(チェジュド)に避難します。暮らしは貧しくても、美しい島で家族といっしょにいることができるだけで李仲燮は幸せでした。韓国戦争のさなかに描かれた李仲燮の作品は済州島の海や自然、子どもたちをモチーフにした幸せな作品ばかりでした。



    戦況が少し落ち着いた1951年12月、李仲燮は故郷に戻るため、島を出て釜山(プサン)へ向かいます。しかし、戦争は終わらず、避難先での暮らしは悪化するばかりでした。苦心の末、李仲燮は家族を日本にある妻の実家に送ります。一人になってしまった彼は、孤独で貧しい毎日を送りますが、日本にいる家族には明るい絵を添えた手紙を送り続けていました。

    釜山の埠頭で働きながら避難生活を送っていた李仲燮は、韓国戦争の砲声が鳴り止んだ1953年、釜山を離れて、韓半島の南部、統営(トンヨン)へ移り、翌年、ソウルに戻ります。そして、1955年1月、最初で最後となった個展を開きます。彼は作品を売ったお金で家族が集まって暮らせる日を心待ちにしながら絵を描き続けました。個展は好評のうちに終わりましたが、代金が支払われないことが多く家族との再会は実現しませんでした。李仲燮は、絶望の淵に立たされ、1956年9月6日、孤独なまま息を引き取りました。時間が経つうちにその存在すら忘れられていた天才画家、李仲燮。彼の名前が再び注目されるようになったのは1970年代に入ってからでした。70年代の韓国にはたくさんの画廊がオープンし、展示会などを通して李仲燮の作品を紹介しはじめたのです。

    日本による植民地支配と戦争、貧しさと家族との別れ。絶望のどん底に突き落とされながらも祖国と自然、そして人に対する愛情と希望を失うことがなかった天才画家、李仲燮。生誕100周年を迎える2016年、彼は自分の生涯と作品を通じて、私たちに新年の希望を語りかけているのではないでしょうか。