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女性運動家  李姫鎬(イ・ヒホ)氏

#マル秘社会面 l 2019-06-12

玄海灘に立つ虹

© YONHAP News

ニュースでもお伝えしましたが、金大中元大統領の妻、李姫鎬さんが入院先の病院で亡くなりました。歴代の大統領夫人の中でイ・ヒホさんは特別な存在です。他の大統領夫人たちが専業主婦、良妻賢母型のファーストレディだったのに対して、彼女はイ・ヒホさん自身が金大中元大統領の政治的同士であったのと同時に女性運動家でもあったためです。

そこで女性運動家としてのイ・ヒホさんの生涯をご紹介します。

女性の人権という言葉が聞きなれなかった1940年代、イ・ヒホさんは当時の世の中に怒りをぶつけた1世代の女性運動家でした。ソウル大学在学中のエピソードです

ある集まりで男子学生たちはビールをぐいぐい飲み、同席していた女子学生たちはひたすら恥ずかしそうに下を向いていました。これを見たイ・ヒホさんは後輩たちに「顔を上げなさい」といい、店の主人には「女子学生にも飲める飲料水を別に準備してください」と要求しました。当時は1940年代の半ば、日本から独立したばかりで「男女7歳にして席を同じうせず」という言葉がまだ生きていた時代でした。

その後1951年、韓国戦争のために釜山に避難していた頃です。彼女は大韓女性青年団という団体を立ち上げます。戦争による女性の被害を助けるための団体でしたが、その主な仕事は戦争の犠牲になった軍人と警察の遺族を助ける仕事でした。さらに、1952年、女性問題研究院を創立し男女差別の問題に本格的に向き合っていきます。

1954年から58年までアメリカに留学し、1959年に帰国後は大韓YMCA連合会の総務となり社会運動の道を進みます。

そんな彼女の提案した最初のキャンペーンが「婚姻届けを出しましょう」でした。当時は結婚しても婚姻届をださない人が多かった時代でした。そのため、後に愛人として家に来た女性のせいで、本妻が追い出されてしまうというケースが多かったといいます。「妾のいる男を国会に送るな」というキャンペーンも行いました。「妻を踏みにじる男は、国を踏みにじる」というプラカードを手に街頭行進もしました。

1964年からは男女差別の法条項の撤廃のために動き出します。家族法の改正です。そしてこのときに国会で彼女を助けたのが金大中元大統領、当時は国会議員でした。

ファーストレディになった後も、他の大統領夫人とは違い、大統領に同伴するのではなく一人で海外訪問もしました。2002年に韓国の大統領夫人としては初めて国連の児童特別総会で基調演説をしました。また男女差別禁止法制定、韓国女性財団発足などにも助力しました。

生前のインタビューで自分の半生を振り返り「私の良心に照らして一生を恥じることなく生きたと思います。女性運動家・民主化運動家として記憶されることを願います」と語っています。ご冥福を祈ります。

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