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文化

「漁夫の辞、オブサ」ほか

#国楽の世界へ l 2018-12-26

国楽の世界へ


昔の学者ソンビは、科挙に合格すること、有名な政治家になることが人生の目標でした。また、同時に、乱れた現実から逃れたいとも思ったでしょう。自然の中で静かに暮らすことを夢見たものです。もちろん、このふたつは同時にはできないことです。どちらかひとつだけでも簡単な夢ではありません。多くの場合、体はこの世で暮らし、自然の中で暮らすことを想像しながら歌を作りました。そんな歌のひとつが、「漁夫の辞」という曲です。浜辺に暮らす白髪のお年寄りのお話です。官職を捨てて静かなところで暮らすソンビの生活を、漁師に例えて歌う曲です。今日は、まず、この曲をお楽しみいただきます。キム・ヨンウさんの歌で、「漁夫の辞、オブサ」という曲です。


自然の中で暮らすことには、色んなやり方があります。農村で素朴に生活することも、山の中で生活することもできます。でも、昔のソンビは、漁師の生活にあこがれていたようです。たぶん、中国の政治家、屈原の影響ではなかったかと思います。屈原は、中国の春秋戦国時代の楚の国の人です。政治的な関係で、江南地方に追放されました。その地方の漁師との対話を基にしたものが、「漁父の辞」という詩です。彷徨っている屈原を見て、漁師は、「あなたは楚の国の屈原ではありませんか。なぜ、ここで彷徨っているのですか」と尋ねました。すると、屈原は、「世の中が濁っているのに自分ひとりで清く生きようとし、そんなわけで追放されたのだ」と答えました。すると漁師は、自らを清いとして追放されたと言っていることをたしなめました。「水が澄んでいると、冠の紐を洗い、水が濁っていると足を洗います」と言い、去って行ったそうです。普通の人は与えられた環境で最善を尽くすだけで、水が濁っているからといって去るわけにはいかないということが言いたがったのでしょう。現実が気に入らないという理由で去っていけるのは、力があるからです。でも、漁師は、その環境で耐えることの方が大事だと言っているのです。清いところでは清いなりに、濁ったところでは濁ったなりに暮らすことを言っています。ただ、仕方がないから暮らすのか、受け入れて暮らすのかには、差があるということです。今度は、中国の詩を元にした、「新関山戎馬(シンクァンサンユンマ)」という曲を、キム・ナリさんの歌でお楽しみください。


「関山戎馬(クァンサンユンマ)」という詩は、朝鮮後期の文人、シン・クァンス先生が科挙の試験で書いた詩です。平壌(ピョンヤン)の芸者の妓生(キーセン)がよく歌ったと伝わります。西道(ソド)地域特有の哀切なリズムで、今日までも親しまれています。もともとの題目は、岳陽楼に登り、という意味の「登岳陽楼」です。中国の詩人、杜甫が故国の戦乱を嘆く内容なんです。年末のこの時期になると、忙しい中でも、ふと寂しい気持ちになることがあります。昔は、大晦日に仮面をかぶって踊る、厄払いの儀式を行うことがありました。きっと、厄払いそのものよりも、心の中の暗い気持ちをぬぐい取ることの方が大きな目的だったと思います。今日の最後は、そのような儀式で歌う、「ビナリ」という曲です。大晦日に騒がしく儀式を済ませると、寂しい気持ちはなくなり、新年に対する期待感でいっぱいになったのではないでしょうか。今日は、2018年最後の放送です。今年も、ありがとうございました。みなさん、良いお年をお迎えください。

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