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歴史

未来へ向けて歩み続ける韓国

2015-12-29

未来へ向けて歩み続ける韓国
1945年8月15日、韓国は長い間待ち焦がれていた光復、植民地支配からの解放を迎えます。韓半島は光復の喜びに満ち溢れました。しかし、その後の韓国にはさまざまな逆境と貧しさが待ち構えていました。光復3年めになる1948年8月15日。大韓民国政府が樹立しました。新しい政府の誕生で、韓国の人々の心には新しい希望が芽生えました。しかし、その希望も長くは続きませんでした。2年後の1950年6月25日の朝、北韓の侵略によって勃発した韓国戦争。一つの民族が南北に分かれ、互いに銃を突きつけた惨憺たる戦いでした。3年に及んだ戦争によって、韓半島は徹底的に破壊され、南北の分断は取り返しのつかない現実となりました。

韓国戦争の砲声が鳴り止んだ時、韓国の国内総生産=GDPは477億ウォン、1人当たりの国民総所得はたったの67ドルでした。韓国は世界で最も貧しい国の一つで、国民は暗闇のどん底に突き落とされました。絶望的な状況が続きましたが、1962年、政府が打ち出した「経済開発5ヶ年」計画によって、韓国社会にも変化の兆しが見え始めます。全国各地に工場をはじめ、高速道路や鉄道が建設されました。また、韓国の若者たちは炭鉱労働者として、あるいは看護婦としてドイツへ派遣されました。彼らの働きは外貨の獲得に貢献し、韓国の経済発展の基盤となりました。

1970年代、全国で繰り広げられたセマウル運動。「新しい街作り」という意味のセマウル運動は国の再建を願う韓国人の精神的な支えとなり、韓国の経済発展を導きました。軽工業中心だった産業も重工業と製造業中心へと変わっていきました。

しかし、目覚ましい経済成長の裏で、韓国の民主主義は抑圧され、停滞したままでした。1962年、軍事クーデターを通して政権を掴んだ朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領は、10年後の1972年、長期執権を狙って、非常戒厳令を宣言、維新改憲を断行し、民主化運動を徹底的に弾圧したのです。時は流れ、1979年10月26日。朴正煕大統領が側近によって暗殺される事件が発生します。朴正煕大統領の死で韓国の維新体制は幕を閉じました。そして、翌年、1980年の春、民主主義へ向けた人々の熱望が一気に爆発します。学生を中心に大勢の人が通りに飛び出し、民主化を訴え続けました。民主化に向けた国民の叫びは高まるばかりでした。そして、この叫びは1987年、憲法改正を中心とする6.29宣言を導き出します。

一方、長い間、対立が続いていた南北関係にも変化の兆しが見え始めます。1984年、大雨で大きな被害を被った韓国に対して、北韓が救援物資の支援を申し出たのです。北韓の申し出を韓国が受けたことで、翌年の1985年、南北分断後初めて、離散家族の再会が実現します。

1988年に開かれたソウルオリンピックは韓国にとって歴史的な出来事でした。オリンピック開催をきっかけに、韓国は目覚ましく発展した新しい韓国のイメージを世界にアピールし、第2の跳躍を夢見ていました。しかし、それから10年も経たない1997年、韓国戦争以来、最大の危機に見舞われます。1997年、通貨危機に見舞われた韓国政府は国際通貨基金=IMFに金融支援を申し込むことになったのです。多くの企業が倒産し、大勢の人が職を失うなどつらい時間でした。しかし、韓国の人々は最後まであきらめることなく、通貨危機の原因の一つとなった古い経済構造を改善させ、再び立ち上がることができました。

2002年、韓国と日本で共同開催された韓日FIFAワールドカップ大会。韓半島を真っ赤に染めた情熱的な韓国の応援風景は世界に強烈な印象を残しました。また、90年代、ドラマから始まった韓流ブームはK-popへ続き、韓国の文化は世界の人々を魅了しました。2013年、宇宙ロケット「羅老(ナロ)号」を打ち上げ、衛星を軌道に乗せたことで、韓国はスペースクラブの仲間入りも果たしました。

韓国が日本の植民地支配から解放されて70年になった2015年。今年も、韓国は、MERS =中東呼吸器症候群をはじめ、北韓の挑発、旧日本軍慰安婦問題などによる日本との関係、世界的な不況など、さまざまな壁を乗り越えなければなりませんでした。しかし、どんな難関にぶつかっても、再び立ち上がり、一歩ずつ前進してきた韓国は、今も、より大きな未来、より大きな夢に向かって、新たな一歩を踏み出しています。

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