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論点

洪範図将軍の遺骨 故国に帰還

2021-08-21

ニュース

ⓒYONHAP News

独立活動家の洪範図(ホン・ボムド)将軍の遺骨がカザフスタンから祖国に帰還しました。

洪範図将軍は日本統治時代の独立活動家で、鳳梧洞戦闘や青山里戦闘で日本軍に大きな打撃を与えた大韓独立軍の司令官です。

遺骨は独立記念日の8月15日にカザフスタンから韓国空軍の特別機で韓国に運ばれました。

特別機が到着したソウル空港では、文在寅大統領夫妻や大統領府の高官、独立活動家の遺族らが出迎え、記念式典が行われました。

記念式典が終わった後、16~17日の国民追悼期間を経て、遺骨は大田国立墓地に移され、18日に埋葬されました。

洪範図将軍は1868年に平壤で生まれました。

幼少期に両親を亡くし、製紙工場で働いたあと、金剛山で漁師生活をしましたが、朝鮮統監府が公布した銃砲・刀剣・火薬類等取締り法により猟師生活ができなくなると義兵に身を投じ、1910年の韓日併合後は満州に亡命して、本格的に独立活動に加わります。

洪範図将軍は満州で独立軍の養成に力を入れ、1919年から間島国民会の大韓独立軍の司令官を務めました。

洪範図将軍が率いる大韓独立軍は満州を拠点に、日本軍を奇襲攻撃する戦術で大きな戦果を収めました。

1920年6月には鳳梧洞戦闘を指揮し、日本軍に大きな打撃を与え、同じ年10月の青山里戦闘では、兵力と火力が大きく上回る日本軍に壊滅的な打撃を与えました。

青山里戦闘では、日本軍の兵力は5000人余り、大韓独立軍の兵力はその半数に及びませんでしたが、この戦闘で日本軍1200人余りが戦死、3000人以上が負傷するなど、大韓独立軍の一方的な勝利でした。

独立軍の拠点だった満州での日本軍の圧迫は日ごとに強まり、洪範図将軍は仕方なく独立軍の拠点をロシアの沿海州に移しましたが、ロシアは武装した独立軍への統制を強化、1921年6月には大韓独立軍の解散を命令し、拠点を失った独立軍は事実上解体されました。

洪範図将軍はその後、モスクワで被圧迫民族大会に出席するなど、独立に向けた活動を続けましたが、1937年のスターリンによる朝鮮人強制移住政策でカザフスタンに移住、1943年10月にカザフスタンのクジルオルダで亡くなりました。

享年76でした。

洪範図将軍の遺骨の帰国は、祖国の独立のために闘ったその崇高な精神を受け継ぐという固い意志が反映された結果です。

遺骨の帰国に合わせてカザフスタンのカシムジョマルト・トカエフ大統領が韓国を訪れ、文在寅大統領と会談し、友好関係を拡大していくことで合意しました。

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