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KBS World Radio 光復70周年 大韓民国パノラマ'
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コリア70年
西ドイツへ向かった韓国の青年たち
2015-03-17
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1960年代の韓国。食べるものに困らない家は裕福だと言われるほど貧しい時代でした。世界銀行から送られてくる120カ国の国民1人当たりの所得を示す資料によると、当時、 韓国は最下位のインドに次いで、最後から2番目の72ドルでした。
1960年の夏、韓国政府代表団は借款を支援してもらうため、西ドイツへ向かいます。やっとのことで、長官ではなく次官と面談した韓国代表団は、3千万ドル借款の約束を取りつけることができました。しかし、喜びもつかの間、貧しい国、韓国に対して元金や利子の支払いを保証してくれる銀行はありませんでした。そんな時、西ドイツの公務員が、韓国の若者に西ドイツで働いてもらおうという奇抜なアイデアを持ちかけます。 こうして、貧しさから抜け出すため、遠く西ドイツへ向かった韓国の鉱夫と看護師の歴史が始まりました。
1963年の夏、韓国政府は、「3年間、毎月159ドルの賃金をもらえる」という内容で西ドイツに派遣する鉱夫を募集します。全国の新聞に、西ドイツで働く鉱夫5千人と看護師2千人を募集するという広告を出した結果、およそ4万7千人が鉱夫に、2万7千人が看護師に応募しました。応募資格は高卒だったのですが、応募者のほとんどが大学を出た人たちでした。当時、統計庁の「経済活動人口調査」によると、韓国の失業率はおよそ8.1パーセント。働きたくても働く場所がなかった韓国の若者たちは当時としては高い賃金をもらえる西ドイツの鉱夫募集に高い関心を示しました。そして、1963年12月、高い競争率を勝ち抜いた250人あまりの若者が鉱夫として西ドイツ行きの飛行機に身を乗せます。
韓国の若者たちが向かったのは、当時、西ドイツを代表する炭鉱地域だったルール地方。西ドイツ政府の統計によると、1961年以降、西ドイツの石炭業界では、自国の労働者が減少し、その空白を外国人労働者が埋めていました。1963年から1977年まで西ドイツに派遣された韓国人炭鉱労働者の数は延べ7936人。同じ時期に1万2千人あまりの韓国人看護師も西ドイツに派遣されています。
苦労は覚悟の上でしたが、炭鉱での仕事は思ったより大変なものでした。大学を卒業した韓国の若者たちは地下千メートルまで下り、鉛筆の代わりにつるはしを手に、石炭を掘り続けました。当時、韓国の会社員の給与は約5万ウォン。西ドイツで鉱夫として働いていた労働者の収入は月30万ウォンほどだったため、韓国にいる家族のことを思うといくら辛くても仕事をあきらめることができなかったのです。そして、給与のほとんどは韓国に送っていました。ドイツに派遣された看護師も事情は同じでした。ドイツに派遣された労働者が韓国に送ったお金は、最初のうちは数百万ドル、半ばを過ぎると、延べ数千万ドルに達しました。このお金は個人だけではなく、国の経済成長にも大きな役割を果たしました。ドイツで働いて得た収入はすべて外貨獲得となるため、全体的に見ると、当時の輸出総額のおよそ3パーセントを占めるほど大きな金額だったからです。
ドイツで働く韓国人派遣労働者は勤務態度がよく、その働きぶりはドイツのマスコミを通して紹介され、これがドイツ人の心を動かします。こんな人たちがいる国を支援しようという声が上がり始めました。こうした変化が西ドイツ政府を動かし、1964年12月5日、韓国の朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領が国賓として西ドイツに招かれることになります。14日間の日程でドイツを訪れた韓国の朴正煕大統領は同じ分断国家として、西ドイツとの友好関係を高め、韓国の経済開発に必要な借款の支援を要請したのです。
貧しい祖国に家族を残し、遠く西ドイツで、鉱夫として、また看護師として働いた韓国の若者たち。彼らが流した汗と涙は韓国の経済を立て直す礎となり、その献身と努力で、韓国は百万人の外国人労働者が訪れる国にまで成長することができたのです。
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