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経済危機を乗り越え、再び立ち上がった韓国

2015-09-22

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今から18年前の1997年11月21日、韓国の経済副総理であり、財政経済院長官を兼ねていたイム・チャンヨル長官の特別記者会見が開かれました。韓国政府がIMF、すなわち「国際通貨基金」に対して救済金融を正式申請したという発表でした。当時、国債や借入金など、国の負債は延べ1千2百億ドルに達し、外貨準備高は300億ドルほどに過ぎないという内容も含まれました。政府の発表から2週間ほどが経った1997年12月3日。韓国政府は国際通貨基金、IMFとの融資交渉を妥結し、韓国は、国際通貨基金=IMFの厳しい救済金融体制下におかれることになりました。

韓国政府が救済金融を申請するおよそ1年前、1996年10月11日、韓国は「OECD(国際協力開発機構)」に加盟します。ところが、それからわずか1年後の1997年、韓国は韓国戦争以来最大の危機とされる通貨危機に見舞われたのです。しかし、経済危機の兆しは、IMFに対して救済金融を申請した1997年初めからすでに見えていました。

1997年1月、韓国の財界14位を占めていた「韓宝(ハンボ)グループ」の系列会社「韓宝鉄鋼」が5兆7千億ウォンという巨額の不良負債を抱えたまま不渡りを出し、事実上、倒産しました。そして、この事件をきっかけに、巨額の資金を融資する過程で政界からの圧力があったとの疑惑が生じ、政界と金融界との癒着や不正行為が明るみに出ました。かつて、韓国政府は成長可能性のある一定の企業に対して、経済的支援やさまざまな優遇措置を施していました。その企業を大きく育てることで関連企業も同時に成長させる効果をあげることができると考えたのです。経済成長が国にとって最大の課題だった時代、慣行的に行われていた政財癒着は誤ったことだと思われませんでした。しかし、1990年代には、もはやこのような方法は通じません。こうした問題点が露になったのが韓宝グループの不渡り事件でした。「韓宝」の倒産は、一企業の没落にとどまらず、韓国経済を揺るがす嵐の始まりとなりました。その後、韓国では大企業の破産と倒産が相次ぎました。

企業の倒産で生じた負債はそのまま金融機関が抱え込むことになり、韓国の金融機関は海外から借りた資金を返すことができませんでした。こうして韓国の外貨準備高は急落し、銀行まで破産寸前に追い込まれてしまいます。さらに、1997年7月、タイを中心に始まったアジア各国の急激な通貨下落現象、つまりアジア通貨危機の煽りを受け、韓国経済は崖っぷちに立たされることになったのです。韓国経済が揺るぎ始めると、外国人投資家は韓国の株式市場を離れ、株価は暴落、ウォンの対ドルルートも激しく揺れ動きます。そして1997年12月、韓国はIMFの救済金融体制下に置かれることになります。

IMFの救済金融体制下に置かれた翌年の1998年、この1年のうちに2万あまりの企業が倒産し、やっとのことで生き残った企業もリストラと構造改革計画を発表、130万人以上が職を失ってしまいます。韓国の国民総生産(GNP)は10年前の状態に逆戻りし、経済成長率も18年ぶりにマイナス6.7パーセントを記録しました。韓国の経済は絶望的ともいえる状態に陥りました。IMF管理体制が始まり、ドル不足で国が不渡り寸前というニュースに衝撃を受けた韓国の人々は民間団体を中心に「金(きん)集め運動」に乗り出します。国の債務を償還するドルを集めるために始まった「金集め運動」にはおよそ350万人が参加し、海外のメディアは経済危機を克服するために団結した韓国人の姿に称賛を送りました。

国民が集めた金、そして通貨危機によって強行された企業のリストラと構造改革、経営の透明化は韓国経済を安定させる役割を果たし、韓国の輸出競争力は向上、貿易黒字が増えていきました。その結果、韓国に入ってくる外貨が増え、底をついていた外貨準備高も満たされました。そして、2001年8月、韓国はIMFからの救済金融資金をすべて返済し、その支援体制から脱却することができました。

1997年、韓国を襲った経済危機。絶望的な状況に追い込まれた韓国の人々は一致団結して危機を乗り越え、わずか4年足らずで再起することができました。IMFの支援体制下におかれていた4年は文字通り、苦痛の時間でした。しかし、これを克服していく過程で、韓国は古い経済構造を改め、新たな成長の礎を築くことができたのです。