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歴史

栄山江流域文化と前方後円墳

2022-06-17

金曜ステーション

羅州市を流れる栄山江(ヨンサンガン)。木浦港から「海の難所」、海南半島の多島海に流れこむ。古来、この川を溯ってやってきた人々によって、様々な文化と技術がもたらされ、百済に統一されるまで、「栄山江流域文化」と呼ばれる独自の文化圏を築いた。


月渓洞2号墳(光州市光山区)。「栄山江流域文化」を特徴づけるのが長鼓墳(チャンゴボン)と呼ばれる前方後円墳で、この流域では15か所以上で確認されている。内部の横穴式石室は北部九州の前方後円墳とまったく同じ様式で造られていた。


円筒埴輪(国立羅州博物館)。前方後円墳の周りの溝や墳丘からは大量の埴輪や土器の破片が発見され、倭人の様式に従っていることが分かる。前方後円墳は、地域の有力者が倭との関係を維持していることをあえて見せつけるための舞台装置だったとみられる。


大型甕棺(羅州博物館)。幼児用の小さな甕棺は中国やベトナムなどでも広く見られるが、成人の被葬者用に専用に造られた大型甕棺は、吉野ヶ里遺跡などの弥生遺跡と栄山江流域で見られるだけで、ここでも北部九州と栄山江流域文化の共通性が見られる。


国立羅州博物館は潘南古墳群の中にある。円墳が35基あり、内部の横穴式石室からは大型甕棺が多数見つかっている。潘南古墳群がある地域は、かつてこの地域の有力者がいた場所で、栄山江流域文化の中心地だったと見られている。


潘南古墳群新村里9号墳の甕棺から見つかった金銅冠。前方後円墳が築造されたのは5世紀後半から6世紀前半、百済が馬韓全体に支配を拡大する時期と重なる。百済進出を前に、地域の有力者たちは、倭との関係を背景に権威を見せつけたのかもしれない。


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