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歴史

北方限界線を守れ

2015-10-27

北方限界線を守れ
2002年6月29日、午前10時25分。韓半島の西の海に定められた北方限界線から南へ3マイル、韓国の延坪(ヨンピョン)島から西へ14マイルほど離れた海に砲声が鳴り響きます。この日の午前10時前、北韓の警備艇が韓国戦争直後に定められた海上の軍事境界線といえる北方限界線を越えて南下してきました。これに対して韓国海軍は直ちに哨戒艇を現場海域に送りました。韓国の艦艇が接近した時、北韓の警備艇は何の前触れもなく韓国哨戒艇に向けて砲撃を開始したのです。およそ25分間にわたった南北の交戦は、後に「第2次延坪(ヨンピョン)海戦」と呼ばれるようになります。

韓国と北韓、中国が面している西の海は、黄色い海、黄海とも呼ばれています。この黄海は寒流と暖流が出会い、2百種類あまりの魚が捕れる漁場です。また太平洋につながる戦略的な海域でもあるため、長い間、南北間の紛争が絶えない所でした。このため韓国と北韓の境界をはっきりさせる必要がありました。1950年6月25日に勃発した6.25韓国戦争が終わり、休戦協定によって北緯38度線を境に軍事境界線が引かれたため、国連軍は平壌近辺の島を北韓に返し、海上の境界線をどのように引くかの論議が始まりました。しかし、海上の境界線については合意に至らず、国連軍が一方的に当時の普遍的な領海設定基準であった3海里を基準とするNLL、すなわち北方限界線を定めることになりました。

こうして設定された「北方限界線」は事実上、南北の海上境界線となりました。しかし、北韓は1973年から北方限界線の無力化にはかるようになります。そして1977年、北韓は、一方的に沿岸から200海里を軍事水域とすると宣言したのです。これに対して韓国政府は「これまでの北方限界線が実質的な海上境界線」とする立場を固守し、この主張が1991年に南北間で採択された「南北基本合意書」にもつながります。この合意書は南北間のさまざまな問題を包括した文書です。その中には海上境界線についての項目が含まれました。海上境界線は現在の北方限界線を基準とし、この問題について相互の要請があった場合、論議することができるとしています。事実上、北韓が北方限界線=NLLを海の境界線と認めたのです。しかし、「南北基本合意書」の採択にもかかわらず、1999年6月15日、韓国戦争後初めて北韓の挑発による南北間の海上戦が起きたのです。

北韓の警備艇7隻が北方限界線を越えて機関砲と小銃を発砲し、これに韓国艦艇が応戦、南北間の交戦が始まります。この交戦で韓国側には5隻の警備艇に軽い被害がありました。一方、北韓側は魚雷艇1隻が撃沈され、5隻が破損するなど大きな被害を被ります。これが第1次延坪(ヨンピョン)海戦です。

第1次延坪(ヨンピョン)海戦以降、北韓の艦艇や漁船による北方限界線の侵犯は少なくなりました。ところが、2002年6月29日、再び武力攻撃が発生したのです。2002年当時、韓国社会は北韓に対して太陽政策を打ち出していた金大中(キム・デジュン)政権の時代で、北韓に対する警戒体制が比較的緩くなっていた時期でした。また、閉幕が近づいていたサッカーの韓日ワールドカップも開かれていたため、平和的な雰囲気が広がっていました。北韓はその隙を狙って韓国に奇襲攻撃を加え、韓国海軍兵士6人が戦死した悲劇的な第2次延坪海戦が発生したのです。

2002年6月29日、午前9時54分。北方限界線を越えて南下し、10時25分、北韓の奇襲攻撃が始まりました。25分間の南北の交戦で韓国海軍は6人が戦死、18人が負傷しました。また哨戒艇チャムスリ357号は基地に帰還途中に沈没しました。一方、北韓側も30人あまりの死傷者を出しています。遺族だけではなく、国民全体が命懸けで北方限界線を守った
若者たちの死を悼みました。さらに数年後、韓国は第2次延坪海戦の戦死者6人の名を取った高速艦を進水させ、彼らの犠牲を称えています。一方、第2次延坪海戦で大きな被害を被った韓国海軍は武力衝突の再発に備え、それまで5段階だった交戦規定を3段階に変えるとともに、北韓の艦艇と交信できる無線設備を取り付けました。こうした韓国側の努力にもかかわらず、黄海での北韓の挑発はいまも続いているのです。

北方限界線を守るために命懸けで戦った若者たち。彼らの犠牲は、韓国の人々の胸に深く残っています。

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