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歴史

漢陽都城と“治道論”

2021-10-30

金曜ステーション

2020年秋にオープンした漢陽都城遺跡展示館。南山の中腹から1396年最初に築城した当時の石積み(基底部)と1422年の修復跡(左側)、1702年の全面修復の跡(右側)、それに石を持ち上げた支柱の根本の穴が見つかり、城壁の変遷と当時の築城法が一か所で分かる。


東大門と北側の修復された城壁。首都の境界を示すと同時に外敵の侵入を防ぐ漢陽都城には、4つの大門と4つの小門があり、鐘楼「普信閣」の鐘の音に合わせて朝4時に開門、夜10時に閉門した。1895年に門の開閉はなくなり、1907年には交通に支障があるとして、城壁の一部が破壊された。


南大門通り鐘路付近の1894年、1904年、1929年の写真(『京城府史第2巻』1921年より)。開化派のリーダーで甲申政変を起した金玉均は「治道論」を唱え、農業・産業を開発し国力を高めるには物資の移動を自由にする道路整備が必要だと訴えた。


朝鮮王朝末期には「仮家(カゲ)」と呼ばれる店舗が道路を占拠し、牛車が一台通れるほどの道幅しかなかった。そうした中、道路の拡幅工事より先に1899年、路面電車の線路が開通し、東大門と南大門のアーチの中にレールが敷かれた。城壁が壊された1907年、レールは門の外に移設された。


南山白凡広場の城壁。1周18.6キロの漢陽都城は70%の13キロが修復され、遊歩道・トレッキングコースとなっている。城壁の修理を真剣に考える契機となったのは1968年の北朝鮮ゲリラによる青瓦台襲撃未遂事件だった。


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