メニューへ 本文へ
Go Top

歴史

漢陽都城と儒教・仏教の関係

2021-11-27

金曜ステーション

東大門「興仁之門」。朝鮮王朝が国家の統治理念として掲げたのは儒教、なかでも朱子学(性理学)だった。王宮や宗廟など王朝に必要な施設の配置など都市づくりも儒教の考え方に従った。中国の都市と同じ方形の城壁を建設することは許されなかったため、自然の地形を生かし周囲の山の頂上と稜線を繋いで「漢陽都城」を築いた。


左上から時計周りに、東大門「興仁之門」、西大門「敦義門」、北大門「粛靖門」(厳粛安寧に政治を行うという意味で「智慧」を表わす)、南大門「崇礼門」の扁額。統治理念と都市づくりに儒教を用い、それを民衆に周知させる手段として、東西南北の門と中心の鐘楼の名前に、五常・五徳と呼ばれる儒教の徳目「仁義礼智信」の字を入れた。


タプコル公園(旧パゴダ公園)の「国宝2号円覚寺址十層石塔」。高麗時代にはここに興福寺があったが、朝鮮時代になって破壊され、後に7代国王世祖によって円覚寺として再建されたが、10代国王燕山君によって再び廃寺とさせられた。韓国には、国宝級の仏塔だけが残るかつての寺院跡が各地にある。


儒教を尊崇し仏教を徹底的に排斥した朝鮮王朝は、漢陽都城のなかの寺院を2か所のみ残してそのほかは郊外の山に追いやり、僧侶は文字通り「門外漢」として城内に入ることを禁止した。この制度は、夜間に門の開閉がなくなる1895年まで500年近く続いた。


大韓仏教曹渓宗総本山曹渓寺。現世主義の儒教には、来世信仰や因果応報という考え方はなく、人々が子孫の繁栄や幸運への願いを託したのは、風水思想だった。漢陽都城の門の開閉がなくなり、僧侶の出入りが許されてからは、韓国仏教は急速な発展を続け、現在、人口の2割は仏教徒といわれる。

おすすめのコンテンツ

Close

当サイトは、より良いサービスを提供するためにクッキー(cookie)やその他の技術を使用しています。当サイトの使用を継続した場合、利用者はこのポリシーに同意したものとみなします。 詳しく見る >