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ライフスタイル

全斗煥元大統領の逝去

#マル秘社会面 l 2021-11-24

玄海灘に立つ虹

ⓒ YONHAP News

全斗煥元大統領の逝去と関連し、ニュースではお伝え出来なかった内容をご紹介しましょう。


全元大統領は自宅で倒れたということです。ただ持病があり病名は多発性骨髄腫(たはつせいこつずいしゅ)、血液のガンでした。そのため最後の光州地方裁判所への出席の際にもあんなにげっそりと痩せていたのでしょうか。

葬儀は家族葬で行われるようです。先月26日に亡くなった盧泰愚(ノ・テウ)元大統領の葬儀は国家葬という形で行われ、国務総理が葬儀委員長を務めましたが、全元大統領の葬儀は国家葬にはならないようです。全元大統領の埋葬地に関しては国立墓地ではなく、秘書官は2017年に出した回顧録の文章が事実上の遺書だとしています。この回顧録には

「私の人生が終われば、北の地を見渡せる前方の高地に白骨としてでも残りながら統一のその日を迎えたい」という一文があります。 北の地を見渡せる前方の高地というのは38度線にちかい最前線という意味でしょうから、墓地ではありません。そのため秘書官は具体的には「前方の高地の墓地は我々が決定できることではないので、火葬して延禧洞の自宅に迎えて、墓地が決まれば(移す)」ということです。軍人らしい希望ですね。


実は全元大統領にとって亡くなった11月23日という日は、特別な日でした。33年前の1988年11月23日に全元大統領は延禧洞の自宅で、在任期間中の失策と過ちおよび不正について謝罪して、李順子(イ・スンジャ)夫人と白潭寺(ペクダムサ)へ向かいました。元大統領と夫人は江原道のこの山奥の寺で2年以上隠遁生活を送ることになります。青瓦台を出て9カ月目のことでした。自宅の書斎で「対国民謝罪文」を発表し、そのまま内雪岳に位置する白潭寺に向かい雪深い山寺での隠遁生活をはじめました。当時のことを李順子夫人は「世の中から隔離され、荒涼とした百潭寺で流刑のような隠遁生活」を送ったと書き記しています。その白潭寺行きをした日がまさに11月23日でした。


全斗煥元大統領の経済成果に対する評価は比較的高いと言えます。「経済成長」と「物価安定」を同時に実現させたという点です。

全斗煥政権は厳しい経済環境の中でスタートしました。1980年の国内総生産(GDP)成長率はマイナス1.6%、消費者物価の上昇率は28.7%でした。成長と物価という経済の2本の軸が揺らいでいたのです。経常収支は赤字から抜け出せず、失業率は5.2%でした。しかしちょうど世界的な3低好況(ドル安円高・原油安・低金利)が重なり、韓国経済は1986年から1988年まで毎年10%を超える経済成長率を達成しました。1986年のアジア競技大会、1988年のソウルオリンピックを通じてグローバル市場に出ていく準備も進みました。全元大統領の在任期間1人あたりのGDPは1980年の1714.1ドルから1988年には4754.5ドルへと2.8倍に増え、慢性的な貿易赤字も黒字構造に転換しました。韓国経済は持続成長軌道に入り、中産層も拡大しました。付加価値が高い自動車・電子・半導体のような先端産業が世界的な競争力を備え始めたのもこの頃です。


全斗煥元大統領は歴代大統領の中で最もスポーツ好きな大統領でした。学生自体にはボクシング好きで、サッカーもゴールキーパーとして活躍したといいます。そして就任期間中に野球、サッカー、シルムのプロ化を推進しました。また1986年のアジア競技大会、1988年のソウルオリンピックを誘致したのも全元大統領の時代です。さらにそのために1982年に体育部を新設しています。1982年に韓国プロ野球が初めて開幕しました。3月27日にソウルの東大門球場で開かれたMBC青龍とサムスンライオンズの試合には大統領自ら始球をしています。練習を積んで見事ストライクでした。当時その試合には観衆3万人が入場していましたが、 実はその相当数が警護員で、始球の際に前に立っていた審判も警護員だったという話も伝わっています。1983年には伝統競技のシルム、韓国式相撲もプロ化され、その人気はテレビ中継の視聴率が最高65%に達するほどでした。また白潭寺で隠遁生活をしていた頃から始めたバドミントンは年老いてからも続けており、大統領退任後、自宅のある延禧洞 の同好会に所属してバドミントンを続けていたといいます。

ご冥福を祈ります。

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