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旅行

韓国の近代史の舞台となった建物、雲峴宮

2011-11-01

韓国の近代史の舞台となった建物、雲峴宮
1年に4ヶ月、4月と5月、そして9月と10月の日曜日の午後、観光スポットとして知られる街、仁寺洞(インサドン)では華麗な衣装をまとったソンビが大きな輿に乗って、その周りを20人あまりが護衛して練り歩く行列を見ることができます。これは朝鮮王朝26代目の王、高宗(コジョン)の父の興宣大院君(フンソン・テウォングン)が王宮に向かう様子を再現したものです。

行列がスタートしたのは興宣大院君の屋敷、雲峴宮(ウンヒョングン)です。韓国の近代史に大きな影響を与えた人物、興宣大院君の邸宅であり、彼の政治活動の舞台となった場所、雲峴宮は仁寺洞に近い、ソウル鐘路区(チョンノグ)雲泥洞(ウンニドン)にあります。ソウル地下鉄3号線、安国(アングッ)駅の4番出口を出て少し歩いていくと雲峴宮が見えてきます。

雲峴宮は朝鮮時代末期の政治において大変貴重な意味を持っている建物で、歴史の現場といえます。朝鮮王朝25代目の王は跡継ぎを残さないまま亡くなりました。その後を次いで1863年、弱冠12歳の高宗が26代目の王に即位します。この時から1873年までの10年間にわたって、幼い王に代わって父親の興宣大院君による摂政政治が行われました。興宣大院君は有能な人材を発掘したり、教育や当時の風俗を改革したりするなど、数々の業績を残しました。興宣大院君に対する評価はそれぞれで、彼が鎖国政策を取り、西洋の文化と学問、キリスト教が入ってくるのを禁じたため、韓国は近代化の適期を逃したという批判もあります。彼の主な政策は雲峴宮にある別棟の「老安堂(ノアンダン)」で論じられました。

1863年12月、王の親族を意味する「君(クン)」に代わって、王の実父を意味する「大院君(テウォングン)」という爵号を賜った興宣大院君。彼の屋敷は「雲峴宮」と呼ばれるようになり、その規模も一時は王宮と肩を並べるほど大きくなりました。しかし、興宣大院君が政治の表舞台から退き、その後、日本による植民地時代や韓国戦争などを経て、現在、その規模はかつての4分の1ほどになってしまいました。1993年、ソウル市は興宣大院君の子孫から雲峴宮を買い取り、修理作業を経て、1997年にソウル市の文化財として一般公開しました。

左右の回廊より高く作られた雲峴宮の門。門から向かって右側にある建物は守直舎(スジクサ)で、雲峴宮の警備と管理を担当していた人たちが生活していました。その後ろに見える建物が興宣大院君の執務室といえるサランチェ、別棟の「老安堂(ノアンダン)」です。 正面6間(けん)、側面3間のこの建物で興宣大院君はさまざまな政策を考えたり、大勢の人と議論したりしながら当時の政治と社会を動かしていたのです。

老安堂の横にある中門をくぐっていくと母屋の「老楽堂(ノラクタン)」が現れます。雲峴宮を訪れた人の中で興宣大院君の目に適った人材はこの中門を通って官職に就いたとされたため、「登庸門」と呼ばれていたといいます。老後を楽しく送るという意味がある「老楽堂」では朝鮮王朝26代目の王、高宗の婚礼式も行われました。結婚式を終えた王と王妃が興宣大院君に挨拶をするために訪れると、興宣大院君は「王と王妃が来てくれたのはうれしいが、お二人が母屋の2つの部屋を使うので、老夫婦の居場所がなくなった」と笑い、その後ろに別棟の二老堂(イロダン)を建てて、妻と暮らすことにしました。

興宣大院君の妻で、高宗皇帝の母親が暮らしていた建物、二老堂(イロダン)は庭を中心に興宣大院君夫妻のための建物と女官のための建物などがあって、上から見ると口の形を描いた構造になっています。これは他の男性がたやすく出入りできないようにするための造りでした。二老堂の前には遺物展示館があって、雲峴宮に関する資料や興宣大院君の遺品、王と王妃の婚礼衣装などが展示されています。

日曜日には韓国の伝統音楽の演奏会が開かれていて、雲峴宮の歴史をかえりみながら、静かなひとときを送ることができます。韓国の近代史と文化、そして韓屋の風情が一つになった空間、雲峴宮で秋の名残りを感じてみてはいかがでしょうか。

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