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ドイツ人外交顧問と朝露密約事件

2021-01-30

KBS WORLD Radio

メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff 穆麟德、1847~1901)は、清の北洋大臣・李鴻章によって、「洋務」つまり外交と貿易を担う顧問として朝鮮に送り込まれたドイツ人。外交顧問(外衙門協辨)と税関(海関総税務司)、造幣局(典圜局総辨)のポストを与えられ、閣僚と並ぶ「穆参判」と呼ばれた。


メレンドルフは税関と造幣局を任され、財政政策全般を掌握。新しく「当五銭」(常平通宝)を発行したが、偽物が横行し激しいインフレを招いた。新通貨は王妃の宮廷での莫大な支出を賄うために発行されたものだったと言われる。


メレンドルフは1884年12月、「甲申政変」に巻き込まれ、開化派によって襲撃されて重傷を負った王妃の甥、閔泳翊を自宅に運び、治療した。メレンドルフの邸宅は今、「曹渓寺(チョゲサ)」の境内になっているが、事件現場となった「郵征総局」(右奥、矢印の建物)はすぐ近くにある。


曹渓寺の裏にある壽松公園(壽松は昔の地名)と淑明女学校の石碑。ここもメレンドルフの邸宅跡の一部で、メレンドルフが去ったあとは、一時、ドイツ公使館として使われたが、のちに韓国初の女子大学となる淑明女学校や中東学校などとしても使われた。


外交顧問としてのメレンドルフは、大国の同士の争いに巻き込まれないための朝鮮の中立化を画策し、ロシアの力を借りるための密約交渉を行なった。その裏には、ロシアの関心を欧州から極東に振り向かせようというドイツの意向があったとも言われる。そして密約交渉の最中に起きたのが、朝鮮半島へのロシアの南下政策を警戒する英国による巨文島占領事件(1885年)だった。


密約事件が発覚したあと、李鴻章の圧力を受け、国王高宗はメレンドルフを外交顧問から解任。彼の朝鮮滞在はわずか2年半だった。中国に戻ったメレンドルフは、その後、満州語のローマ字表記に関する本を出版するなど、晩年は言語学者、中国研究者として活躍した。

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