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コーナー

渋沢栄一と韓国

2021-02-27

KBS WORLD Radio

渋沢栄一(1840~1931)

「日本経済の父」「日本近代化の父」とも称され、生涯で500あまりの企業の設立の関わり、600以上の公共事業・公営団体の運営に携わった。幕末に武蔵の国の豪農の家に生まれた渋沢の青年時代は、尊皇攘夷と倒幕に命をかけた憂国の士でもあった。



旧・朝鮮銀行本店(韓国銀行貨幣博物館)

渋沢は韓国でも、銀行・鉄道・ガス電気などの多くの事業を手がけた。渋沢が設立した株式会社第一銀行は1878年に韓国に進出、1905年からは旧貨幣の整理回収事業を担当し、韓国における金融制度を確立した。のちの朝鮮銀行は第一銀行から中央銀行としての機能を引き継いだ。


朝鮮で初めて流通した紙幣、統一銀行発行の兌換券(銀行窓口で日本円に交換できた)は、1905年には正式な銀行券として承認された。しかし、紙幣の肖像画に渋沢の顔が印刷されたことで、韓国では渋沢は「日帝の経済侵略を象徴する人物」「植民地収奪を行なった中心人物」と見られるようになった。


パリ万博視察徳川幕府訪欧団(1867)

渋沢は27歳の時、徳川慶喜の弟で民部大輔の徳川昭武の随行員として渡欧し、一年間にわたりパリ万博などヨーロッパを視察した。このときフランスの銀行家から、銀行の役割や株式会社の仕組みなど近代西洋の資本主義を学んだ。


パリに到着してすぐに、渋沢はまげを落とし洋装に切り替えた。渋沢が目指したのは「身分制度の打破」と「士魂商才」、つまり“武士の精神と商人の才覚”で「人々の利益のために会社をつくる」「みんなが幸せを感じる世の中にしたい」という信念だった。


生涯、論語を学び『論語と算盤』という本を残した渋沢は、儒教をバックボーンにした知識人、経済人だった。渋沢は「韓国は全く農業時代の国にして,いまだ工業経済もしくは商業経済の時代に達せざるものなり」と述べ、だから、うまく経済発展を誘導しなければならないと考えていた。

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