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KBS World Radio 光復70周年 大韓民国パノラマ'
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コリア70年
経済成長の礎
2015-02-03
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1955年9月15日。産業鉄道、聞慶(ムンギョン)線が開通しました。全長22キロほどの聞慶線は、韓半島の中央に近い、慶尚北道(キョンサンブクト)聞慶地域から出る石炭や亜鉛など、地下資源を開発するためのものでした。その4ヶ月後の1956年。年明けとともに、韓半島の東海岸に沿って連なる太白(テベク)山脈にも力強い汽笛が鳴り響きました。太白地域の炭鉱を開発するため、標高1500メートルの険しい山脈を横切って走る栄巌(ヨンアム)線と寧越(ヨンウォル)線が相次いで開通したのです。相次ぐ産業鉄道の開通によって韓国の経済は息を吹き返しはじめました。
およそ3年にわたって進撃と撤退を繰り返した韓国戦争は、韓国社会を壊滅状態に陥れました。経済活動の基盤となるインフラの6割以上が破壊され、都市は灰と化してしまいました。食べるものさえなかった戦後の韓国。そんな時代、韓国の経済を支えていたのは海外の援助でした。その中心となったのが、国連傘下にあった、「UNKRA(ウンクラ)」と呼ばれた「国際連合韓国再建団」でした。
海外の援助は韓国経済に変化をもたらしました。ほとんどの農産物が原料の形で供給されたため、韓国でこれをパンや衣類に加工しなければなりませんでした。こうして、韓国では精糖、精粉、綿紡績産業が発達し始めます。さらに、資本を借りて工場を建て、稼働させるなど、韓国経済は少しずつ自立のための基盤を築いていきました。
1950年代半ばに入ると、韓国では、海外の援助に頼らない、自立した経済基盤を作らなければならないという声が高まります。韓国産製品の使用を奨励し、生産財工業が中心となる産業政策が登場したのも、この時期です。1955年2月、韓国政府は経済計画機関である「復興部」を新設しました。援助資金を中心とした単純事業計画の代わりに総合経済計画を構想し、自立した経済を育成する方案を打ち立てます。
1950年代の韓国は、海外の援助を受ける一方で、経済の自立を目指して走り続けていました。国を再建していくために必要なセメントを生産する聞慶(ムンギョン)セメント工場をはじめ、食糧自給率を高めるために肥料工場などの施設が次々と建設され、稼働されました。1953年、韓国戦争が終わった直後の韓国は、産業施設の7、8割が破壊された状態でしたが、韓国の人たちは国を立て直すために心を一つにし、4年後にはその95パーセントを復旧させています。都市では重化学工業の基盤が整えられ、農村地域では農地改革など農業の近代化が進められました。1959年には農産物だけではなく、韓国産の製品を輸出するまでになります。3年におよぶ戦争によって壊滅状態になった国をたった4年で復旧できたのは韓国の人たちにとって大きな意味を持つ経験でした。
海外の援助を受けながらも、それに頼ることなく経済の自立を目指していた戦後の韓国。1950年代後半の韓国は、廃虚の中から立ち上がり、未来に向けて、黙々と成長の礎を築き上げたのです。
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