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KBS World Radio 光復70周年 大韓民国パノラマ'
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コリア70年
咲け!民主主義の花
2015-02-17
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1960年。年明けとともに韓国の人たちの関心は3月15日に実施される第4代大統領選挙と第5代副大統領選挙に注がれました。選挙は、与党である自由党の李承晩(イ・スンマン)、李起鵬(イ・ギブン)候補と、野党である民主党の趙炳玉(チョ․ビョンオク)、張勉(チャン・ミョン)候補の対決となりました。選挙をひと月後に控えた2月15日。野党の大統領候補だった趙炳玉さんが心臓マヒで亡くなります。彼の死で、李承晩候補の再執権は決まったも同然。選挙の焦点は副大統領選挙に当てられました。当時、85歳だった李承晩大統領の身辺に異変が生じた場合、副大統領はその執務を代行する人物だったからです。
12年間の長期執権と不正、アメリカからの援助の減少、失業者の増加などによって李承晩政権を見つめる韓国民の視線は冷え切っていました。危機感を感じた与党の自由党は、行政機関である「内務部」を動員し、すでに死亡した人を有権者名簿に載せたり、お金で支持者を買収したりするなど、大々的な不正を犯します。その結果、圧倒的な支持率で次期大統領と副大統領に当選します。
不正が蔓延した選挙に韓国の人たちは憤激しました。最初に行動を起こしたのは野党の支持率が高かった慶尚南道(キョンサンナムド)馬山(マサン)。投票が終わり、開票が始まった3月15日の午後6時半、多くの市民が馬山市役所にかけつけます。開票過程でも不法行為が起きているという知らせを耳にしたのです。集まった市民は「選挙の無効」と「再選挙実施」を叫びました。時間を追うごとにその数は増え、催涙弾で阻止していた警察はついに市民に向けて銃を放ちます。この日、警察の発砲によって、7人の高校生を含む、9人が死亡、
870人の負傷者が発生しました。
不正選挙を糾弾する集会に対し、政府は強硬策を取り、世論は静まる気配を見せました。しかし、4月11日。馬山の沖合で、目に催涙弾を打ち込まれた遺体が発見されます。3月15日、大統領選挙当日、不正選挙糾弾集会に参加したまま、行方が分からなくなっていた17歳の高校生、金朱烈(キム・ジュヨル)さんでした。友人の死を目撃した学生たちは通りに飛び出し、激怒した市民もこれに加わりました。4.19革命、4月革命の始まりでした。
ソウルで本格的なデモが始まったのは4月18日。宣言文を朗読し、平和的な街頭行進をすませた学生たちが学校に戻る道中、李承晩政権の指示を受けた暴力団によって襲撃されたのです。この事件によって韓国の人たちは政府に背を向けました。
1960年4月19日の朝、ソウルの市街地は大学生が中心となったデモ隊で埋まります。李承晩大統領の辞任を訴えるデモは、ソウルだけでなく、釜山(プサン)大邱(テグ)、光州(クァンジュ)など全国に広がりました。正午が過ぎた頃、ソウルの都心を埋めた人々は大統領官邸の景武台(キョンムデ)へ向かいます。景武台は、デモ隊にとっては最終目標であり、警察にとっては最後の阻止線でした。警察との距離が10メートルほどになった時、警察はデモ隊に向けて一斉射撃を始め、180人を越える死傷者を出しました。慌てた李承晩政権はソウルをはじめ、デモ発生地域に非常戒厳令を宣布し、デモ隊を阻止しようとします。
しかし、一度広がり始めた革命の火は鎮まりませんでした。大学の教授や小学生たちまでデモ隊に加わったのです。4月26日。李承晩大統領は、ついに大統領職辞任を発表します。
4月革命、あるいは4.19革命と呼ばれる、暴力に頼らない民衆運動は12年におよんだ李承晩政権に終止符を打ちました。独裁的政治に立ち向かい、民主主義を守るために立ち上がった4月革命は、韓国社会の持つ潜在力、平凡な人々の力と可能性を見せつけた事件でした。
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