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歴史

全琫準

2011-06-30

<b>全琫準</b>
朝鮮時代後期、貧しい農民が腐敗した両班(貴族)勢力の圧制に耐えかね蜂起したことがありました。朝鮮の歴史上初めての農民運動の「東学農民運動」です。
その東学農民運動の先頭に立っていたリーダーが今日ご紹介する全琫準(チョン・ボンジュン)です。

全琫準は1855年、全羅北道(チョンラブクド)高昌(コチャン)で生まれました。
父は日本の寺子屋にあたる、書堂(ソダン)の先生をしていました。
しかし父は民乱の首謀者だという罪を着せられ処刑されてしまいます。
その父の最期をみた全琫準は社会改革の強い意志をその胸深くに刻むことになるのです。
その後、30歳で民族宗教・東学(トンハク)に入り、全羅北道古阜(コブ)教区の責任者となります。
そしてこの地で書堂を設けて子供たちを教え、一方では漢方薬房をつくり漢方医として人々の治療にもあたります。
1894年1月8日、 全琫準は1000人の農民と東学の信者をひきつれ、この地方の官舎を襲撃します。
2年前から古阜の郡主として赴任していた趙秉甲(チョ・ビョンガプ)は不正・腐敗を重ね、良民からは多額の税金を徴収し人々を苦しめていました。
農民たちの窮状を見かねた全琫準が立ち上がったのです。農民の蜂起に驚いた中央政府は、このまま生業に戻れば農民を処罰することはないとして、新たな群主を送り込んできますが、この新たな郡主もまた襲撃に参加した多くの農民を次々と捕まえて牢獄に入れます。
報国安民(民は国の根本であり、根本が衰えば国が滅びる)を掲げて再び蜂起した全琫準は、今度は近くの東学の教徒にも一緒に蜂起することを促す手紙を送ります。
その結果、1894年5月4日、彼のもとに集まった農民は1万3000人に達しました。
初めて歴史の主役となった農民たちは、怒涛のように進行し、蜂起から1ヶ月で全羅道のすべてをその手中に収めます。
その勢いに驚いた中央政府は清に軍隊の派遣を要請します。
さらに日本も加わり、朝鮮の国土に清と日本の軍隊が出兵してきました。
5月7日、農民軍と中央政府は一度は和約を結び、農民軍も軍を引きます。
しかし日本は朝鮮に進駐させた軍隊を撤退させずに、そのまま景福宮を侵攻します。
このような日本の態度に怒った全琫準は、今度は12万人の農民軍を引き連れ蜂起しますが、近代的な武器で武装した日本軍の前に屈することになります。
そして部下の密告により12月2日に逮捕され、1895年に絞首刑にかけられます。
革命は成功しませんでしたが、不義に立ち向かい勇敢に戦った全琫準の死を悼み、人々は今でもこんな歌をうたっています

鳥よ、鳥よ 青い鳥よ、緑豆の畑にとまるな
緑豆の花が散れば 緑豆の商人たちが泣いて通り過ぎる

緑豆将軍。
背が低く、頑強な体つきをしていた全琫準に付けられたあだ名でした。

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