第23話 映画『誤発弾』と戦後の韓国社会について
2025-09-03
ヒッチコック
朴監督はソウル生まれ。朝鮮時代後期から続く名門、潘南・朴氏の家に生まれ、代々ソウルの鍾路に居住してきた生粋のソウルっ子です。
父は建築家で大学教授、祖父も日本統治時代に検事や判事を歴任しました。妻は大学時代に知り合い、外資系銀行勤務経験があり、朴監督は映画『JSA』で成功するまで妻のおかげで家計を維持できたと語っています。娘とのエピソードも多く、家庭人としての一面も知られています。
学生時代は美術史学者を志望して西江(ソガン)大学・哲学科に進学。写真クラブに所属しつつ映画サークルを結成し、大学図書館で映画書籍を読み漁りました。転機は大学時代、上映会で見たヒッチコックの『めまい』です。映像の持つ力に衝撃を受け、映画監督を志すことを決意しました。哲学の学びとヒッチコック作品体験は、後の「倫理」「人間存在の矛盾」「倒錯と欲望」といった彼の作品の主題形成に影響しました。
デビュー作
大学卒業後は助監督や映画評論家として活動。1983年に評論家としてデビューし、9年間活動しました。
監督デビュー作は1992年の『月は…太陽が見る夢』ですが、興行的に失敗しほとんど注目されませんでした。
転機となったのは2000年の『JSA(共同警備区域)』です。南北兵士の交流と悲劇を描いたこの作品は、政治性とヒューマニズムのバランスに成功し大ヒットとなりました。
その後2003年の『オールドボーイ』でカンヌ映画祭グランプリを受賞、独自の映画世界が開花。
『親切なクムジャさん』『お嬢さん』『別れる決心』と国際的にも評価される作品を次々に発表しました。
社会発言
朴監督は社会的発言でも知られています。
1980年代、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権下で学生生活を送った386世代であることが背景にあります。1990年代は映画評論を通じて映画文化への批評的視点を発表。
2000年代には『JSA』を通じ南北分断問題を取り上げ、社会に強いメッセージを発しました。
2005年頃には復讐映画を撮る理由として「復讐は無意味だが、それを生む社会の病を直視したい」と発言。2010年代には『お嬢さん』の公開時に「女優という呼び方は時代遅れ」と述べ、フェミニストとしてジェンダー平等を訴えました。
近年では戒厳令問題に抗議する映画人声明に署名し、デモ支援の行動も行いました。今年の百想芸術大賞では「臆病で無能なリーダーではなく、国民を恐れる人物を選ばねばならない」とスピーチ。映画以外でもニュースに登場する存在です。
2025-09-03
2025-09-01
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