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文化

ベルリン五輪金メダリスト・孫基禎を記念するマラソン大会

#ソウル・暮らしのおと l 2025-11-21

金曜ステーション

ⓒ KBS News
11月16日、京畿道の高陽市では、「孫基禎(ソン・ギジョン)平和マラソン大会」が開かれました。かつて、ベルリン五輪の男子マラソンで金メダルを獲得し、当時の韓民族に大きな希望を届けたランナー、孫基禎の名前を冠するマラソン大会です。

生涯をスポーツと平和に捧げた孫基禎さんは、韓日共催ワールドカップの年の2002年11月15日、永眠されました。その後、2005年からこの孫基禎平和マラソン大会がはじまったのですが、20周年を迎えた今年は、奇しくも孫基禎さんの命日の翌日に開催となりました。 大会はフル、ハーフ、10キロの種目で構成され、約2万人の市民が参加したそうです。

1936年8月、ベルリン五輪の最後の種目マラソンで、一人のアジアの青年が世界中の注目を集めました。2時間29分19秒。誰も超えられなかった2時間30分の壁を破りゴールテープを切ったのは、 朝鮮人のランナー・孫基禎でした。
しかし、彼はソン・ギジョンという名前では呼ばれませんでした。日本の植民地時代だった当時、日本代表として出場し、ソンキテイという名前で表彰台に上りました。 
深くうつむき、授けられた月桂樹の木で胸の日の丸を隠している写真は、当時の孫基禎さんの無念と悔しさを物語っています。

祖国解放後、孫基禎さんは韓国のマラソン選手の育成に尽くしました。2023年に公開された映画「ボストン1947」で描かれた1947年ボストンマラソンでのソ・ユンボクの優勝、そして、再び1950年ボストンマラソンで1、2、3位をすべて韓国選手が勝ち取るという快挙を成し遂げたのも、孫基禎監督の熱意の結果でした。
韓国のスポーツ選手の育成と同時に、孫基禎さんは生涯をかけて「スポーツと平和」という命題にとりくみました。晩年、日本のインタビューで、「勝負のときは国を背負っているが、終わってしまえば皆友達で、ユニフォームを交換したりする。平和が大切なのだ」と答えています。植民地時代、韓国戦争と分断という過酷な時代にも、スポーツを通じて世界の人々と友情を育んだ孫基禎さんだからこそ語れる、重みのある言葉です。

そんな孫基禎さんの意思を称えて、20年間この「孫基禎平和マラソン大会」を運営しているのは、孫基禎さんの孫であり、記念財団の事務総長を務めるイ・ジュンスンさんです。イさんは、孫基禎さんが亡国のランナーというイメージだけで消費されるのは残念だと語ります。悲しい優勝者としてではなく喜びの優勝者として記憶されるようにしたいという願いがあるとのこと。そのために、国際オリンピック委員会のホームページの「日本人のキテイ・ソン」とのみ記録されている箇所に、韓国の金メダリストであると明記するための国籍回復運動の署名も展開しています。
イさんが長年温めてきたもう一つの夢、それは、臨津閣から北韓の開城まで走る、南北共同マラソンの実現です。これは、北の新義州の出身の孫基禎さんの夢にも近づくことです。ベルリン五輪からちょうど90年となる来年の実現に向けて、意欲を示しています。

今年の平和マラソンに日本から参加された方もいました。以前からずっと参加してみたかったという日本の参加者から、こんな感想を伺いました。
「孫基禎平和マラソンを走りながら、平和について深く考える時間になりました。スタート前のK-POPで華やぐ会場とは対照的に、孫基禎さんが植民地時代に受けた差別や抑圧を思うと、胸に迫るものがあります。その歴史を感じながら走れたこと、日本から参加し韓国の市民と共に走れたこと、そして解放80年という節目の年に立ち会えたことに、大きな意味を感じました。」

国境も世代も超えて多くの人が走る喜びの中に、孫基禎さんが残した「挑戦する力」が息づいていることを感じさせる大会でした。その精神を未来に引き継ぐ場として、これからも続いていくことに期待します。

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