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文化

深まる秋に風情を添える韓国の歌曲

2014-11-11

10月28日、ソウルの広津(クァンジン)文化芸術会館では白南(ペンナム)という雅号で知られる故・金連俊(キム・ヨンジュン)の誕生100周年を記念する音楽会が開かれました。金連俊(キム・ヨンジュン)は、ソウルにある漢陽(ハニャン)大学を設立した教育者で、韓国を代表する歌曲「青山(せいざん)に生きる」をはじめ、3,600曲あまりを書き残した人物です。



紅葉や落ち葉に秋の深まりを感じる季節になりました。感性あふれる季節、秋には、美しい詩のような歌、歌曲を思い浮かべる人が多いようで、韓国では「歌曲の夕べ」「歌曲の饗宴」などと題して毎年、さまざまな歌曲関連のイベントが開かれます。ソウルにある漢陽大学博物館でも、今、金連俊(キム・ヨンジュン)誕生100周年を記念する特別展示会、「五線譜に流れる詩-歌曲一世紀」展が開かれています。

韓国歌曲の歴史は19世紀末に遡ります。当時、韓国には西洋の文物とともに外国人の宣教師が入ってきました。宣教師たちの宣教活動の一環として、韓国の人たちに賛美歌など西洋の音楽を教えはじめます。これが韓国歌曲の始まりでした。後に西洋音楽の教師として、また作曲家として活動した金仁湜(キム・インシク)や韓国歌曲の先駆者と評価されるバイオリニスト兼、作曲家の洪蘭坡(ホン・ナンパ)なども、宣教師の奥さんが弾くピアノを聞きながら初めて西洋音楽に触れたとされています。初期の韓国歌曲は日本やヨーロッパに渡って本格的な学んで帰ってきた若者たちによって作られはじめたため、西洋音楽の影響が強く残っています。西洋音楽から始まった初期の韓国歌曲、つまり1920年代の歌曲を聞くと、西洋の音楽に韓国語の詩をつけたような曲が多いことが分かります。言葉のアクセントと歌曲のアクセントが異なる場合もたびたびでした。

韓国最初の歌曲は、洪蘭坡(ホン・ナンパ)が作曲した「鳳仙花」です。作曲家の洪蘭坡は、小説家としても活動していました。1920年、洪蘭坡は自分の短編小説「乙女魂」に、「哀愁」という歌詞のないバイオリン曲を載せました。「哀愁」のメロディに魅せられた作詞家、キム・ヒョンジュンが、3年後、歌詞をつけて発表した歌が歌曲「鳳仙花」でした。韓国最初の歌曲「鳳仙花」は、日本による植民地時代、祖国を失った韓国の人たちの気持ちが込められた哀愁に富んだ歌です。

「鳳仙花」のように、韓国の歌曲には、韓国の人々の情緒と時代背景がそのまま映し出されています。1933年に発表された、韓国を代表する歌曲「先駆者」は中国で活動していた独立運動家の決意を表しています。また、植民地支配から解放されて間もない1950年、韓国戦争でが勃発し、戦争によって何もかも失った韓国の人たちを慰めてくれたのも歌曲でした。歌曲「麦畑」や「明太」などがこの時期に作られています。多くの死者を出した韓国戦争。1969年、テレビ局のプロデューサーだったハン・ミョンヒは名もない墓を見て、「木の墓標」という意味の「碑木(ピモク)」という詩を書きます。これに作曲家のチャン・イルナムが曲をつけ、歌曲に完成させました。「碑木」は、韓国人のほとんどが知っている歌曲の一つです。

歌曲を聴くと、時の流れ、社会の変化が見えてきます。金連俊(キム・ヨンジュン)誕生100周年を記念する特別展示会では時代別の歌曲とともに、韓国歌曲を導いてきた人物について紹介しています。

日本による植民地支配時代と解放された直後、韓国戦争と戦後の克服過程、そして本格的な近代化が始まった1960年代から1980年代まで。韓国の人たちの心を映し出した歌、歌曲は、全盛期を迎えました。



今も「歌曲の夕べ」にはたくさんの観客が集まりますが、ポップソングや歌謡曲など、さまざまなジャンルの音楽が楽しめるようになり、いつ頃からか、歌曲は古い歌とみなされるようになりました。しかし、民謡「アリラン」をアレンジした曲を作るなど韓国歌曲も時代の流れに合わせて変化を試みています。長い間、韓国の人たちを慰めてきた歌だけに韓国歌曲の伝統はこれからも続いていくことでしょう。

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