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忠清南道・公州にある宋山里古墳群。1930年代に地元の高校教師・軽部慈恩の手で6号墳まで発掘調査が行われる。1971年7月、古墳の排水口工事をしていた作業員が地中から固い煉瓦を見つけ文化財管理局に通報、これが第7番目の墳墓の世紀の大発見につながった。


墓誌石の碑文から、被葬者は百済第25代国王武寧王とその王妃と特定され、木棺や副葬品は埋葬当時のまま完全な形で残されていた。世紀の大発見としてニュースとなり現場は大混乱になったため、内部の発掘調査と遺物の回収は12時間という短時間で行われた。


武寧王陵は、塼(せん)という煉瓦を積み上げた「塼築墓」という形式で、煉瓦の紋様から副葬品の種類や配置まで、中国の南朝・梁の形式を完全に踏襲していた。これは武寧王が外来の先進文化を吸収し、中国南朝と緊密な外交関係を築いていた歴史的な証拠とされる。


武寧王と王妃の木簡は、コウヤマキという日本の九州にしか自生しない木材で作られていた。『日本書紀』には武寧王(斯麻王)は佐賀県唐津市加唐島で生まれたと記され、副葬品からは銅鏡や環頭太刀、翡翠の勾玉など日本との交流を示す数多くの品が見つかっている。


百済の都・公山城の城郭とその脇を流れる錦江(クムガン)。西暦475年、高句麗に攻められた百済は都を今のソウルから熊津(ウンジン、公州)に移した。錦江は白村江の名前でも知られ、663年百済・日本連合軍と新羅・唐連合軍が戦い、百済が滅亡した場所でもある。


公山城の錦西楼。一周2.6キロの城郭は宋山里古墳群とともにユネスコ世界遺産になっている。武寧王(在位501~523年)は梁の国から「寧東大将軍」の爵号を贈られ、百済全盛期を築くとともに、五経博士を派遣するなど先進文化を日本に伝える役割を果たした。


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