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歴史

東明聖王

2011-01-07

<b>東明聖王</b>
東明聖王、日本ではドラマ「朱蒙」の主人公といった方が分かりやすいかもしれません。

5世紀に建てられた広開土(グァンゲト)大王碑の冒頭には
「私は天帝の息子であり、河伯(水神)の娘を母とする朱蒙王である」とあります。
広開土大王は自分の征服王としての記録より先に、
高句麗を建国した東明聖王、朱蒙の誕生談をその碑に刻みました。
なぜでしょう? 
それだけ高句麗の人々にとって、朱蒙の子孫だということは大きなプライドだったということです。

BC58年に生まれた東明聖王の誕生神話は「三国史記」に詳しく載っています。
12世紀に書かれた「三国史記」の「高句麗本記の第1章」には次のように書かれています。

東扶餘の王、ヘブルが亡くなり、その息子の金蛙(クムワ)が即位した。
このとき金蛙王は太白山の南で水神(河伯)の娘、柳花と出会う。
花のように美しい柳花が言うには
天帝の息子、ヘモスを愛しているのだが、そのことが両親に知られ、
このように山中に隠れて暮らしているという。
金蛙王は柳花を連れて帰り、王宮に住まわせる。
すると日の光が部屋の中の柳花を照らし続け、いくら逃げようとしても
日の光は柳花を追い回した。こうして柳花は受胎し大きな卵を産みおとす。
これを奇異に思った金蛙王はこの卵を道端に捨ててしまうが、
鳥たちが飛んできて、その羽で卵を抱えてしまい、いくら壊そうとしても
卵は割れず、仕方なく柳花に卵を返すと、やがて男の子が誕生した。

東明聖王は弓の名手で7歳の時に自ら弓と矢を作り、百発百中の神業を発揮したため、人々は彼を朱蒙と呼びました。
朱蒙とは扶餘(プヨ)の言葉で「弓の名手」という意味です。

このように幼い頃から非常に優れた才能を見せた朱蒙を金蛙王の7人の王子が妬み、殺そうとします。
朱蒙は母の忠告に従い3人の臣下とともに東扶餘を後にし、魚とカメの作った不思議な橋を渡り卒本(ジョルボン)に到着します。
そしてBC37年に高句麗を建国し、その後、高句麗は700年間にわたって北東アジアで栄え続けるのです。

歴史家たちは朱蒙を包容力に富んだ人物だと評価しています。
彼は土着勢力を力で征服したのではなく、彼らと手を握って民心を得たからです。卒本扶餘の王女である召西奴(ソソノ)との結婚も土着勢力との結合により自然にリーダーの地位についたものでした。
朱蒙は神聖さ、勇敢さ、包容力を兼ね備えた本物のリーダーだったといえます。
そのため、在位18年後のBC19年に40歳で亡くなった後は 東明聖王として信仰の対象となり今でも人々に崇拝されているのです。

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