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歴史

韓民族の悲劇、韓国戦争

2015-01-20

韓民族の悲劇、韓国戦争
1950年6月25日、日曜日の明け方。北韓軍の奇襲攻撃が始まりました。南韓攻撃開始の合図となった北韓軍の暗号は「暴風」。「暴風」を合図に、北韓は、現在の北韓西部にある甕津(オンジン)半島をはじめ、軍事境界線の中央部に近い春川(チュンチョン)、東部の江陵(カンヌン)に全面攻撃を仕掛けました。北韓軍侵略の知らせはただちに南韓に伝わります。しかし、南韓の人たちは大きな動揺を見せませんでした。それまでにも北緯38度線、つまり軍事境界線界わいでの衝突はたびたび起きていていたからでした。

しかし、この日はいつもと様子が違っていました。中国や旧ソ連と、韓国を侵略する戦争に同意を求める協定を結ぶなど、韓半島統一を目的とする戦争を準備していた北韓は、この日、南韓への全面攻撃に乗り出したのです。ソ連製の戦車と大砲で武装した北韓軍の攻撃に、
南韓は後退を余儀なくされ、戦争開始3日後には首都ソウルを占領されてしまいました。

日本による植民地支配から解放され、ようやく安定を取り戻していた南韓の人たちの日常は、韓国戦争によって再び混乱に陥ってしまいました。人々は荷物をまとめて戦禍を避けて避難し、若者たちは戦場へ向かいました。避難の道程は悲惨なものでした。爆撃で親を亡くした戦争孤児、混乱の中で家族と離ればなれになってしまった離散家族が全国にあふれました。

思いがけない韓半島の戦争勃発の知らせに国際社会が動き出しました。1950年6月26日、国連安全保障理事会が開かれ、28日、決議案が通過、国連軍の派兵が決まったのです。7月17日。アメリカをはじめ、16カ国の戦闘部隊が国連軍として韓国戦争に参戦しました。しかし、戦況は悪化するばかりでした。国連軍の参戦から1カ月が過ぎた1950年8月、韓国軍と国連軍は韓国の南東部、大邱(テグ)まで後退しました。

しかし、9月15日、北韓軍に有利に見えた戦況を一変させる作戦が繰り広げられます。仁川(インチョン)上陸作戦。ソウルの西、約20キロの仁川へ上陸してソウルを奪還する作戦でした。船を着けられる時間が限られているなどの問題がありましたが、マッカーサー将軍の決意が堅く、結果的に作戦は成功しました。仁川上陸作戦の成功で、韓国軍と国連軍はソウルを奪還する道を作り、南部に駐屯していた北韓軍の補給線を断つことができました。9月28日、韓国軍と国連軍は北韓に奪われた首都ソウルを奪還します。3カ月ぶりのことでした。そして、1950年10月20日、北韓の首都、平壌(ピョンヤン)へ、さらに北へ進撃し続けました。韓半島の統一も実現しそうに見えました。しかし、この時、戦況を見守っていた中国軍が参戦、またもや状況は一変しました。

1951年1月4日。 韓国軍と国連軍が北韓から退却しました。進撃と退却を繰り返す中、戦争による犠牲者の数は増えるばかりでした。2度の世界大戦を経験していた国際社会は韓国戦争が第3次世界大戦の導火線となることを恐れ、休戦を提案するようになりました。休戦のための協議は2年あまりにわたって続けられ、1953年7月27日、板門店で休戦協定が調印されたのです。

韓国戦争は、勝者も敗者もない戦争でした。3年に及んだ戦争で数百万人が被害を受け、韓半島は決して癒されることのない深い傷を負いました。韓国戦争の砲声が鳴り止んで65年。しかし、韓半島は、今も軍事境界線を境に対立し、南と北に分かれてしまった離散家族の涙は乾いていないのです。

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