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歴史

労働運動の象徴となった青年、全泰壱

2015-04-14

労働運動の象徴となった青年、全泰壱
1970年11月13日、午後1時半。ソウルの東大門(トンデムン)界わいにある平和(ピョンファ)市場前の交差点で、縫製工場で働いていた全泰壱(チョン・テイル)が中心となって、平和市場の劣悪な労働条件の改善を求める集会が行われました。10分が過ぎた頃。警察が集会を強制解散させようとした時、先頭に立っていた22歳の青年、全泰壱は全身にガソリンをかぶって焼身自殺を図り、その日の夜、息を引き取りました。この衝撃的な事件は当時の韓国社会に大きな波紋を投げかけます。

全泰壱は、1948年8月6日、韓半島の南東部にある大邱(テグ)の貧しい家庭の長男として生まれました。全泰壱が11歳になった年、父親は自己破産してしまいます。まだ小学校だった全泰壱は学校を中退、道ばたで靴を磨いたり、新聞を売ったり、時には物乞いをしたりして家族を養わなければなりませんでした。16歳になった彼は、東大門界わいにある平和市場の「サミルサ」という縫製工場に見習いとして入ります。当時、ここ平和市場の2、3階には500以上の縫製工場がびっしりと並んでいました。工場といってもごく小さな規模の作業場で、作業環境は目も当てられない状態でした。1つのフロアを上下2階に分けて使っていたため、作業場の天井は屋根裏部屋のように低く、腰を伸ばして立つこともできませんでした。縫製工場だったため、一日中、座ったまま作業していました。換気設備などはあるはずもなく、繊維から出るホコリがいつも白く積もっていました。全泰壱は、自分を含め、誰よりもつらい環境で働く労働者たちが不当な扱いを受けていることに怒りを感じます。

1968年、韓国に勤労基準法があるということを知った全泰壱は、労働者が人間としての権利を取り戻すためには団結した組織が必要だと考えました。1969年6月、平和市場の労働者10人あまりが集います。この集いの名は「愚か者」という意味の「パボ会」でした。「パボ会」は、全泰壱が中心となって作った親睦会で、最初から労働運動を念頭においていたわけではありません。さまざまな話をしているうちに、厳しい労働環境や勤労条件の改善について語り合うようになったのです。「パボ会」を結成した全泰壱は、工場で働きながら独学で勤労基準法について調査し、勤労条件の改善に努めました。彼は清渓川(チョンゲチョン)界わいの労働実態や環境について調査し、これに基づいて労働庁に陳情し、雇用主とも協議を重ねます。この陳情書は新聞などでも取り上げられ、大きな関心を集めましたが、平和市場の労働環境は一向に改善の兆しが見えませんでした。

失望した全泰壱は、11月13日、「勤労基準法を順守せよ。私たちは機械ではない。労働者を酷使するな。そして、私の死を無駄にするな。」という4つの要求事項を叫びながら、勤労基準法とともに焼身自殺を図り、韓国社会に大きな衝撃を与えます。当時の人たちは、韓国社会がこんなに素朴な要求すら受け入れず、若い命を死に追いやったという事実に大きな衝撃を受けました。

息子の死後、全泰壱の母親、イ・ソソンさんは息子の仲間たちと力を合わせて労働組合を結成するなど、息子の遺言を守るために努力します。韓国社会にも少しずつ変化が見え始めました。全泰壱の死は、韓国の人たちに、民主主義を標榜する韓国社会の影に潜んだ、民主的でない部分について考えさせるきっかけとなりました。それまであまり知られていなかった劣悪な労働環境に関する分析がはじまり、労働権をはじめ、韓国の民主主義の質を高めるのに大きな役割を果たしました。

誰も顧みなかった労働者たちのために自らを犠牲にした青年、全泰壱。韓国の労働運動の発展に大きく貢献した彼は、今なお、韓国の労働運動の象徴として記憶されています。

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