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歴史

恭愍王

2011-09-01

<b>恭愍王</b>
高麗(コリョ)時代の王の中で、高麗を建国した太祖王健(ワンゴン)の次に有名なのが第31代王の恭愍(コンミン)王です。

1206年にジンギスカンが蒙古を統一し、カンの地位に上てから始まった蒙古の領土拡張は、13世紀の高麗にも大きな影響を及ぼしました。
特に1270年以後、高麗はモンゴル族が建国した元の干渉を受けるようになります。
王の名前に元への忠誠を誓う忠の字が入ったり、王の廃位や復位にも元が口を出したりするようになります。
このように高麗王朝が不安な状況に陥っている時期に恭愍王は高麗の第31代王に即位しました。

1351年に生まれた恭愍王は12歳の時に、元の国に人質として連れて行かれ、10年間を過ごします。
その間、二度にわたり王位継承に挑戦しますが失敗し、21歳の時に元の魏王の娘・寶塔實理姫と婚姻し、ついに22歳で王位につきます。
そして政権をつかんだ恭愍王は反元改革政策を進めます。
恭愍王は王になった1352年に「弁髪」と「胡服」廃止令を出します。
当時、高麗は元の風俗を真似た弁髪と胡服が広く浸透していましたが、その習慣を断固として禁じたのです。
さらに元が高麗の内政に干渉するために作った征東行中書省理問所を廃止します。そして 元に取られた高麗の領土の回復にも努めます。
また内政面では改革的な僧侶・辛旽(シンドン)を登用し、豪族が力づくで庶民から取り上げた土地をもとの所有者に返し、奴婢となっていた人々を解放するなどの政策を進めます。

しかし恭愍王の改革は貴族や官僚社会から大きな反発を浴びます。そして1359年と1361年の二度にわたる紅巾賊の侵入により国土は混乱し、改革は頓挫します。
さらに最愛の妻の寶塔實理姫が1365年に亡くなると、王はひたすら妻の冥福を祈る仏事にだけ専念するようになります。
そして政治は僧侶辛旽が主導するようになり、これに反発した貴族の子弟の集団「子弟衛」により1374年 恭愍王は殺害され、その波乱万丈の一生を終えます。

高麗再建のための改革を断行した君主であり、絵画や書にも優れた才能を発揮した恭愍王。
高麗は恭愍王の後を継ぎ王位に就いた第32代王、禑王を最後に、その幕を閉じます。

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