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歴史

安珦

2011-10-13

<b>安珦</b>
孔子が体系を起こし、孟子が大きく広め、朱子が集大成した学問、朱子学(=性理学)は、人格の完成と徳治を目指す正しい生き方を求める学問です。
朝鮮時代には思想と実践哲学の根本となった性理学。
それをこの国にもたらしたのは高麗時代の儒学者、安珦(アン・ヒャン)でした。

1243年、現在の慶尚北道(キョンサンブクド)に生まれた安珦は、幼い頃から学問に優れ、礼儀正しい子供でした。
18歳で科挙の文科に合格し、校書郞という役職につきます。
しかし当時の高麗は元の侵略を避けて西海岸の島・江華(カンファ)島に遷都する危機の時代でした。
そのため安珦も朝廷の一員としてしばし江華島で暮らします。
その後、36歳で国子監(高麗の国立教育機関)に入り、後進の養成に当たります。
そして1289年、彼は当時、世子(皇太子)だった忠宣王に随行し元を訪れることになります。
翌年、帰国した彼の手には1冊の本が握られていました。
朱子の文を集めた「朱子全書」です。
安珦はこの本を全部、書き写して高麗に持ち帰ったのです。

子は親に孝行し、
臣下は王に忠誠し、
礼で家内を整え、
信義で人に接し
自らを敬で精進させる

という性理学の教えに、彼は30年にわたる元の侵攻により荒廃していた世の中に一筋の希望をみつけます。
このときから安珦は数回にわたり元に渡り、元の学風を見学するとともに、キム・ムジョンを元に送って孔子とその弟子72人の像を描かせ、さらに祭祀器、楽器、経書などを購入するなど、本格的な性理学の普及に努めます。

また新しい学問を振興させるためには人材が必要だとして、自分の自宅を朝廷に献納して、当時の国立大学にあたる洋宮(後の朝鮮成均館)を新築します。
また王に建議して六品以上は銀を、七品以下は布を出すようにする贍學錢という育成財団も設置します。
このような彼の努力で1304年には開京(ケギョン)に孔子を祀る大成殿が建てられます。
晩年には朱子を追慕し、自分の号を朱子の号である晦庵に合わせて晦軒にしたといいます。
性理学の普及に力した安珦は1306年64歳で亡くなりました。

そんな彼の真価は死後にも発揮されます。
朝鮮時代に入り、儒学を国学とした朝鮮王朝は安珦を国師だとして、紹修書院などの書院に祀らせ、さらに成均館の文廟をはじめとする全国230の郷校の大成殿には彼の位牌が奉安されます。

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