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歴史

曇徵

2011-10-20

<b>曇徵 </b>
三国時代初期の2~3世紀頃に、中国から漢文書籍が輸入され、それと同時に製紙技術も韓半島に流入したと推定されます。
また「新羅の白硾紙は中国と日本で大切にされている」という記録も残っており、三国時代の製紙技術が相当な水準に達していたことが分かります。
また繊維を短く切って作る中国の製紙方法とは違い、韓国では長い繊維を叩いて均一にして作る独創的な方法が発達しました。 

そしてこの三国時代の製紙方法を日本に伝えたのが 曇徵(タムジン)です。
僧侶であると同時に画家でもあった曇徵は、579年 高句麗で生まれます。
そして610年、百済を経て日本に渡ります。
日本では同じ僧侶の法定とともに人々に仏法を教えます。
また数々の大陸文化を日本に伝えますが、その代表的なものが彩画(絵の具)、製紙技術、墨の製造方法などです。

日本書紀には
「曇徵は5つの経典、すなわち易経、書経、詩経、礼記、春秋の5経に詳しく、
絵をよく描き、紙と墨の製造法を日本に伝え、
硯とヨンジャバンア(牛馬に引かせて穀物をひく臼)についても
人々に教えた」
と書かれています。

また奈良の法隆寺の金堂の壁画が曇徵の手によるものであることも確認されています。
しかし残念ながら、もともとの壁画は1949年の大火事により損傷してしまい、現在は収蔵庫に保管されており、金堂には現在の日本の巨匠の手による復元画がかかっています。

日本に渡った曇徵は飛鳥文化の花を咲かせた聖徳太子の招きを受け、しばし聖徳太子のやかたに泊まることになりますが、その際に法隆寺の金堂の壁画を描いたと伝えられています。
また1989年には法隆寺の五重塔の壁画の下絵の下から曇徵の描いた華麗な観音菩薩像も見つかっています。

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