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歴史

明成皇后

2011-11-03

<b>明成皇后</b>
国の外からは西洋諸国と日本、ロシア、清の圧迫を受け、国内では政治的な混乱と多くの危機にさらされた朝鮮末期に王妃となり、旧韓末の歴史のど真ん中を生きた女性、明成(ミョンソン)皇后は、韓国の歴史の中でも特別な生き方をした女性です。
明成皇后は王となった息子や孫の後ろから権力を動かしていたそれ以前の王妃とは違い、知恵と洞察力で政治の表舞台で自ら開放と改革を推進し、外交力を発揮した女性政治家でした。

1851年、京畿道(キョンギド)でミン・チロク(閔致祿)の娘として生まれたミン・ジャヨン(閔紫英)、後の明成皇后は8歳で父を亡くし、母の手一つで育てられました。
幼い頃から聡明な少女だった彼女に目を留めていた親戚がいました。
後に彼女の姑となる、興宣(フンソン)大院君の妻の府大夫人閔氏でした。
実際に閔紫英は16歳の時に 府大夫人閔氏の推薦で高宗の王妃となります。
当時の彼女は聡明であっても、父もいない上、家勢の衰えた家の娘でした。
そして外戚の影響を恐れた興宣大院君は、わざわざそういう彼女の環境に目をつけ、息子の高宗の嫁にしたのでした。
そして1866年、彼女は正式に朝鮮第26代の王妃となります。
このときの彼女の年齢は満14歳6ヶ月でした。

明成皇后の記録は世界のあちこちに残っています。
旧韓末、朝鮮に滞在していたイギリスの地理学者イザベラ・ビショップ女史は、「目は冷たく、鋭く、才知に富んだ知的な印象を与えた」と描写しており、アメリカ公使館の書記官だったウイリアム・センズは、「女性という限界とその時代を飛び越えた偉大な政治家」だと評しています。
また日本の三浦公使も、「私が国王に謁見する際に、簾を少し開き国王に助言する王妃は才能豊かな、滅多なことでは隙のない方のように見かけられた」と感嘆と警戒の混じった感想を残しています。

しかし明成皇后が最初から政治の中心にいたわけではありませんでした。
婚礼をあげたものの、高宗の関心は他の宮廷女官にありました。
そのため彼女は孤独を癒すために読書に励み、その当時に読んだ古今の名書が後日、高宗を助けて国政に参与する基盤となりました。

1873年、高宗と明成皇后は親政を宣布し、権力の中心から興宣大院君を追い出します。
それと同時に高宗は鎖国を解いて日本と修交し西洋列強とも順に修交条約を結んでいきます。
1882年に導入された西洋式の新式軍隊に対する旧式軍隊の不満が爆発して壬午軍乱が起きると、明成皇后はその難局を外交力を発揮して乗り切ります。
そして1894年、東学農民戦争、日清戦争を経て日本が朝鮮の政治に深く介入すると、今度は朝鮮の国権を略奪しようという日本の野心を見抜き、親ロシア政策をとりながら、日本に対抗する姿勢をとります。
このような彼女の態度に危機を抱いて日本は、1895年8月20日、乙未事變を起こし彼女を暗殺します。43歳でした。

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