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歴史

張承業

2011-11-10

<b>張承業 </b>
朝鮮時代を輝かせた多くの画家たち、その中でも一番、その天才ぶりが有名なのが張承業(チャン・スンオブ)です。
1843年に生まれた張承業は子どもの頃に両親を亡くして転々と暮らし、その後、漢陽に住む李應憲という人の家に居候することになります。
李應憲は清を往来していた通訳官で、多くの絵画を所有していました。
そのため、彼の家には多くの美術品があり、それを人々が集まり鑑賞していました。
そんな環境の中で、人々の陰から多くの美術品を見る機会を得た張承業は、ある日、偶然筆をとると、手の趣くままに竹、梅、蘭、岩などを描きました。
その絵を見た李應憲はその才能に驚き、張承業に紙と筆、墨を与えて、絵を書くことに専念させます。
そして彼は天才画家として朝鮮後期の画壇の中央に躍り出ていきます。
学問をする機会のなかった張承業は文字は自分の名前を書くのがやっとのことだったといいます。
しかし、絵を描くために筆を手にすれば、その筆の先からは素晴らしい絵画が誕生していきました。
また一気に書き上げる一筆揮之の画風でも有名です。
彼は風景画、山水画、人物画と、すべての分野の作品を残していますが、特に彼の動物の絵はひときわ輝いています。
ケイトウの花の咲く庭で鶏たちがのどかに遊んでいる姿を描いた絵、
うさぎを襲う鷹の獰猛な姿を描いた作品。
彼の描いた動物たちはみな、今すぐにでも絵の中から飛び出してきそうです。
そしてそのような彼の生き生きとした画風は、19世紀末、急激に力を持ち始めていた新興の富裕層、中人階級を熱狂させました。
彼の名声はついには宮中にまで聞こえ、高宗の命を受けて絵を描くようになります。
下絵を書いてから、本格的に絵を描き始める既存の画家とは違って、墨と筆を手に、紙や絹の上に一気に書き上げていく張承業は既存の世俗的な慣習も無視しました。
特に酒と女を好み、酒席に出かけては女に酒を注がせてその場で絵を描いていくのでした。
そんな彼が高宗に招かれ宮中に入り屏風を描くことになりますが、自由奔放に生きてきた彼にとって宮中での生活は息苦しいのみで、結局、宮廷画家という名誉も捨てて自由に生きていくことを選びます。
1897年に55歳で亡くなったといわれていますが、詳細は知られていません。

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