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歴史

徐載弼

2011-11-17

<b>徐載弼 </b>
新聞で朝鮮の開化と独立を成し遂げようとした近代時代の知識人、徐載弼(ソ・ジェピル)は、ハングルで刊行された最初の民間新聞「独立新聞」を創刊しました。
開化思想家、革命家、独立運動家、医師、ジャーナリスト。
そのすべてが彼の職業でした。
1864年1月7日に全羅南道(チョンラナムド)宝城(ボソン)で生まれた徐載弼は、7歳でソウルに移り、母方の親戚の金聲根(キム・ソングン)の家で暮らしながら科挙試験を目指します。
18歳で科挙には合格しますが、その間、金聲根の家をよく訪れていた金玉均(キム・オクギュン)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)など初期の開化派のメンバーと交流をもつようになります。
そして金玉均に勧められ、徐載弼は1883年、日本の陸軍幼年学校(陸軍戸山学校)に入学します。
そこで8ヶ月間、近代的な軍事訓練を受け、翌年帰国すると、彼は高宗に士官学校の設立を進言しますが、実現はしませんでした。
そこで1884年に改革と自主的近代国家建設を目指す甲申政変に加わります。
しかし政変は3日天下に終わり、彼は日本を経て1885年アメリカに亡命します。
その後、昼は働き、夜は英語を学び、コロンビア大学医学部(現在のジョージワシントン大学医学部)に入学、1893年に大学を卒業、正式に医師免許を取得します。
そしてアメリカの市民権をとった後、祖国に帰国し、立法機関の中樞院の顧問になります。
彼は上からの改革ではない、下からの実質的な改革を追求しようと国民の啓蒙運動に力を入れるようになり、その一環として1896年4月7日に独立新聞を創刊します。
さらに1896年7月2日には独立協会を創設し、1897年11月、事大主義の象徴ともいわれた中国の使臣を迎えた場所の迎恩門を壊し、そこに国民の寄付金で独立門を建てました。
しかし彼の活躍に危機感を抱いた守旧派と列強諸国により、1898年、彼は再びアメリカに向けて旅立ちます。
そして1919年3月1日に起きた3・1独立運動を契機に、アメリカ国内に韓国人の団体を結成、祖国の独立運動を支援し、1919年4月14日から16日には、アメリカで「韓人自由大会」を開催するなど、再び独立運動に積極的にかかわるようになります。
このような活動で上海臨時政府の対米顧問に任命された徐載弼は、韓国の独立に共感を示すアメリカ人の集い、親韓組織を作ることに努力します。
祖国の独立後、一時、過度政府の特別儀定官に任命され帰国しますが、独立後の混沌とした祖国に失望してまたアメリカに戻り、1951年1月5日、亡くなりました。

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