故郷を描いた多くの詩で有名な詩人、鄭芝溶(チョン・ジヨン)。
鄭芝溶は1902年5月15日、忠清北道(チュンチョンブクド)沃川(オクチョン)で薬局を経営する裕福な家に生まれました。
彼の生まれた村は、山の渓谷から流れ落ちる水が集まり川を成している美しい村でしたが、この川が洪水となり、父の経営する薬局も大きな被害を受けます。
その後、孤独と貧困の中で成長した鄭芝溶は美しい世界を夢見ながら、だんだんと文学的な才能に目覚めていきます。
彼は徽文(フィムン)高校1年の時に文芸活動を始め、高校2年で「曙光」という雑誌に『三人』という小説を発表するなど、早くからその文才を発揮していきます。
学業にも優れていた鄭芝溶は、高校卒業後、奨学生として日本の京都、同志社大学の英文科に入学します。
1926年6月「学潮」創刊号に『カフェ・フランス』など9編の詩を発表し、韓国文壇に登場した鄭芝溶は、日本でも「近代風景」に3年間に『カフェ・フランス』『海』など13の詩と3つの随筆を発表し注目を浴びます。
大学卒業後には「詩文学」の同人となり純粋抒情詩を次々と発表、さらに1932年には「東邦評論」、「文芸月刊誌」などに『故郷』、『列車』など10編の詩を発表し、韓国文壇の中心的な存在となっていきます。
斬新な表現、現代的な素材、韓国語の美しさを極大化した彼の詩は、文壇に静かな衝撃を与えます。
その後、1933年には「カトリック青年」の編集顧問として天才詩人“李箱(イ・サン)”を発掘し、1939年には「文章」を通じて趙芝薰(チョウ・ジフン)、朴斗鎭(パク・トゥジン)、朴木月(パク・モクウォル)らを紹介するなど、後輩の育成にも積極的に関わっていきます。
独立後は京郷(キョンヒャン)新聞の主幹となり、社会の矛盾をするどく批判しますが、それが当時の理念対立の嵐に巻き込まれ、韓国戦争勃発後は平壌(ピョンヤン)の監獄に入れられ、そこで死亡したものと推定されます。
平壌での死をめぐり、これが自発的な越北だったのか、それとも人民軍に連れ去られたものであったのかはっきりせず、文壇の中でもタブー視される存在となっていました。
それが1980年代になり文学界で復権運動が起き、現在ではその故郷に鄭芝溶を記念する記念館も建てられました。
最後に、母校である同志社大学に建てられた詩碑に刻まれている彼の詩「鴨川」をご紹介しましょう
鴨川十里の野原に
日は暮れて 日は暮れて
昼は昼ごと 君を送り
喉がかすれた 早瀬の水音
冷たい砂粒を握りしめ 冷ややかな人の心
握りしめ 砕けよ うつうつと
草生い茂る ねぐら
水鶏の後家が 独り鳴き
燕のつがいが 飛び立ち
雨乞いの踊りを空に舞う
西瓜の匂い 漂う 夕べの川風
オレンジの皮を噛む 若い旅人の憂い
鴨川十里の原に
日が暮れて 日が暮れて