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歴史

李参平

2012-04-12

<b>李参平</b>
有田焼は日本が世界に誇る焼き物ですが、その海の親は朝鮮の陶工「李参平(イ・サムピョン)」です。

朝鮮時代、陶器をつくる陶工の仕事は身分の中でも一番低い卑民階層のものでした。
そのため李参平がいつ、どこで生まれたのかを記す記録はありません。
ただ、公州近くでみつかった陶片と日本の有田地域の初期の頃の陶片が似ていることから、忠清南道(チュンチョンナンド)公州(コンジュ)で生まれたものと推定されています。
李参平は壬申倭乱(文禄・慶長の役)の際に朝鮮に出兵した佐賀藩の藩主鍋島直茂が1598年が日本に連れてきた陶工のうちの一人です。
日本では文禄・慶長の役を一名「陶磁器戦争」と呼ぶほど、当時の朝鮮の陶芸技術は16世紀以前には世界の中でも朝鮮と明の国だけが保有していた最先端技術でした。そのため「捕虜の中でも陶工をまず先に送るように」という命令が出されるほど、朝鮮の数多くの陶工が捕虜として日本に連れて行かれました。

このように日本に捕虜として連れて行かれた李参平は鍋島藩の家臣、多久安順の下で働き、佐賀県有田に窯を開きます。
まず良い陶磁器を作るために必要な良質の陶土を求めてあちこちを見て歩いた李参平は1616年有田の東部、泉山で最高級の陶磁器の原料となる磁石鉱を発見し、他の陶工とともに陶磁器の制作に必要な水と燃料のある天狗谷に陶磁器用の窯の作業場を作り、本格的に陶磁器の制作を始めます。

彼の作る陶磁器は純白な、朝鮮の白磁そのものでした。
その端正で気品のある姿に感動した鍋島藩主は日本初の白磁窯である参平の窯場を積極的に支援し、その後有田地域には数多くの窯元ができます。
そして 李参平は日本人の間で「陶祖」つまり陶磁器の神様と呼ばれるようになるのです。

有田の磁器はその後、李参平の技術をもとに純度の高い白磁に青色のコバルト顔料で模様を描いた青華白磁、明の多彩で豪華な色彩を取り入れた五彩磁器などを作り続け日本を代表する陶磁器となっていきます。
そして1660年からは欧州に輸出され世界的な名声を得るようになります。
繊細な模様、華麗な色彩、流麗でありながら堅固な形が当時の欧州人を圧倒し有田焼の名声は欧州全土に広がりました。
最初の輸出から70年間でおよそ700万個を売った有田焼により日本の陶芸は世界的な名声を得るようになります。
特に1900年にはパリ万国博覧会に参加して「富士流水」という作品で金賞を受賞します。

李参平は窯を開いてから300年目にあたる1917年には陶祖李参平を偲ぶ碑も立てられ、有田では現在も毎年5月に陶芸祭りが開かれています。

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