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歴史

朴斗星

2012-04-19

<b>朴斗星</b>
1926年、西洋式の点字法をハングルに応用した「ハングル点字」が国内で初めて創案されました。このハングル点字の産みの親が朴斗星(パク・ドゥソン)です。

松庵(ソンアム)・朴斗星は1888年4月26日、仁川江華郡で生まれ、1895年から4年間江華島の普昌学校で神学を学び、 その後、漢城師範學校に入学、卒業し、 於義洞普通学校の教師として赴任、教師としての第一歩を歩み始めます。
松庵という号は1911年、普昌学校の設立者で独立運動家の李東揮がつけてくれたもので、
「庵の松のように節義と気概を屈することなかれ」という意味でした。

1913年にソウル盲学校の前身である濟生院盲啞部の初代教師として赴任した朴斗星はその年(1913年)すぐに日本から印刷器機を取り寄せ、まずは日本語の点字教科書を出版します。
また1919年、3.1独立運動の影響で日本が朝鮮語教育の時間を学校から無くそうとすると「目の見える人間は本人の努力でいくらでも読めるようになるが、失明した人々から朝鮮語まで奪い去れば、目が見えないうえに、言葉さえ奪うことになり唖になってしまう」と抗議したのでした。

そしてその1年後、彼は弟子たちとともに密かに「朝鮮点字研究委員会」をつくり、6年間の研究と実験の末に、ハングル点字を作り1926年11月4日、世宗大王の「訓民正音」にちなんで「訓盲正音(フンメンジョンウム)」と名付けて発表しました。
「訓盲正音」は形の違う6つの点字を組み合わせてハングルのすべての子音と母音を表現したものでした。
「訓盲正音」を作った朴斗星は、次にこれを広く普及させるために遠く離れた視覚障害者にも資料を送り通信教育で点字教育を行ったのでした。
また「学ばないことは心までも暗黒に閉ざしてしまう 」と勉学の必要性を強調し、視覚障害者の教育をリードしていきます。

その後、1936年仁川 永化学校の校長に就任し、聖書の点字、イソップ童話など、76種に達する書籍の点字化を行い1963年8月25日、76歳で亡くなります。 
息をひきとる瞬間まで「点字の本は点字が歪んでしまうので、重ねておかずに、立てておくように」と言うほど、その生涯を視覚障害者と点字本に捧げた人生でした。
彼の作ったハングル点字は、その後、弟子たちによりさらに研究が続けられ、独立後も数回の修正・補完され現在でも韓国の標準点字である「ハングル点字統一案」として使用されています。

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