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歴史

黄喜

2012-05-24

<b>黄喜</b>
朝鮮王朝500年を通じて、一番の名宰相と言えるのが黄喜(ファン・ヒ)です。

黄喜は1363年、 判江陵大都護府使であった黃君瑞の息子として開城に生まれたます。
当時は高麗時代も末期でした。
1389年に科挙に合格した黄喜は高麗時代最高の教育機関である高麗成均館の学館を経て、官吏の道を歩んでいきます。
しかしその後しばらくすると高麗は滅び、李成桂により朝鮮王朝が開かれます。
黄喜も最初は他の高麗の遺臣たちとともに杜門洞に蟄居しました。
しかし李成桂は新しい時代を築いていくには黄喜のように若く優秀な人材が必要だとし、
彼に共に新しい時代を築いていこうと呼びかけます。
また 杜門洞に一緒に移り住んでいた高麗の元老遺臣たちもまた
『きみがここで私たちと共に死んでいくのも義の道だろうが、王朝の変化とは何の関係もない民衆のために政事をするのもまた義ある道である』と説き、
結局、黄喜は出仕を決意します。 

こうして 黄喜は朝鮮王朝で 直藝文春秋館、 司憲監察、刑曹、禮曹、兵曹などの官職を務め、朝鮮初期の国の安定に尽くします。
国防の強化、農業改革など、たくさんの業績を残し、4代王の世宗大王の時代には右議政、領議政という官吏としての最高の地位にまで上りつめ、18年間にわたり宰相として清廉潔白に職務に励みます。

また彼は政治において常に原則と所信を貫き通しました。
朝鮮3代王の太宗が長男の讓寧大君を王位継承者の座から退け、3男の忠寧大君(後の世宗大王)に王位を譲ろうとすると、黄喜は嫡長子継承の原則を強く主張しました。
結局は彼は太宗の怒りをかい、流刑を受けることになりました。

このように自分の信念を持って政治を行っていた黄喜はその在職期間中に王の怒りに触れることも多く、2回左遷され、4年間の流刑生活を送っています。

また18年間も領議政の地位に就きながらも自分の家は雨がふれば雨漏りがするような藁葺きの家のままで自ら野菜を耕して育てるような洗練潔白な人生を歩みました。

また人材の育成にも力を入れ、世宗大王時代には行途薦法という新しい人材選抜方式を取り入れ、身分に関係なく優秀な人材を集めようとします。
その中の一人が奴婢の身分で生まれたにもかかわらず、その抜群の技量を認められ官職にまであがった朝鮮最高の科学者・蔣英實(チャン・ヨンシル)でした。

このように清廉潔白な官吏であり、名宰相でもあった黄喜は1452年に90歳で亡くなります。

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