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歴史

鏡虚禅師

2012-05-31

<b>鏡虚禅師</b>
「アメリカで最も影響力のある25人の一人」に選ばれたこともある
コロンビア大学仏教学のロバート・サーマン教授。
サーマン教授は鏡虚禅師(キョンホソンサ)について
「鏡虚禅師が生きていたならば、その弟子になりたい」と語っています。
朝鮮後期に禅仏教を再びこの地に広げた鏡虚禅師、その生涯は波乱に満ちたものでした。

1846年、全州に生まれ、東旭と呼ばれた鏡虚禅師は9歳で
京畿道・果川の清渓寺で出家します。
兄の泰虚もまた出家し修行をしていたので、自然と兄の後に従ったのでした。
出家し鏡虚と呼ばれるようになった9歳の少年は桂虚和尚の下で5年間学び、
その後、14歳で鶏龍山の東鶴寺に行き、当時朝鮮第一の講師としてその名をはせていた
萬化和尚から仏教の経典はもちろん、儒教の老子思想まで習います。
そして23歳の若さで、師の萬化和尚の代わりに講堂で経論を講義する講伯となります。

そんな鏡居が1879年、最初の師である桂虚和尚に会いに出かけます。
その途中、嵐に合い近くの村で嵐を避けようとしますが、
その村にはコレラが流行しており、
結局、民家に避難することもできず、
嵐の中、木の下で一夜を夜を明かすことになります。
生死の際を行き来するような恐怖の夜を経験した鏡居は、
「生と死は浮き雲のようなもの、生と死は別のものではない」という悟りを得ます。
そして仏教の知識は生死の分かれ道では紙の文字に過ぎないと悟り、
東鶴寺に帰ってからは門を閉じて勇猛精進を始めました。
3ヶ月間の面壁修行の末に「牛になっても鼻の穴の無い牛にならなければならない」
すなわち生と死を超越した存在、すべての偏見と境界を越えた本然の姿を求めなければならないという悟りを得ます。

そしてその後は天蔵庵に移り、さらに勉学を続け、
1884年、満空、慧月、水月の三大弟子を指導し、途絶えていた朝鮮の禅仏教を再興し、
1886年代には忠清南道一帯の開心寺、浮石寺を行き来しながら
弟子の指導と禅の教えを広めることに尽くしました。
また全国各地に禅院を作り、
毎年夏と冬の二回、僧侶が一定の期間、一つ所に留まり修行をする「安居」の伝統も復活させました。

このように韓国禅仏教の中興の師である鏡虚禅師でしたが、
一方ではその奇行から破戒僧だとも言われました。
例えば弟子と道を歩いていて突然、すれ違った女性にキスをしてみたり、
酒を飲むなどという具合です。
しかしこれは良くない行動をとっても心が乱れないことを確かめるという
修行の一つの方法でした。
自ら禅の異端者として苦難の道を選んだ鏡虚禅師は、
生涯を禅の生活化、日常化に努めます。
実際に彼はその晩年を平安北道と咸鏡南道で過ごしますが、
頭ものばし書堂を開いて子供たちを教えながら
1912年に素朴な村の村老としてその生涯を終えました。

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