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歴史

李德懋

2012-11-22

李德懋
世の中に読書好きと言われる人はたくさんいます。
しかし「見たことのない本に出会うと、一日中顔から笑みがこぼれてしまう」とまで読書の楽しさを強調し、自らを「看書痴(本に狂った馬鹿者)」と呼んだ朝鮮時代の実学者がいます。李德懋(イ・ドクム)です。

李德懋は1741年、 通德郞 李聖浩の息子としてソウルに生まれます。
その家は定宗(朝鮮王朝第2代王)の庶子である茂林君の子孫で、その家門は王家にもつながる名門の家門でした。
しかし彼は生涯、身分の差別の中で生きるほかありませんでした。
それは彼が両班である父と、庶民の母との間に産まれた庶子だったからです。
そして庶子の出身は官職にはつけないという、朝鮮時代の不文律のために彼は身分的な差別を受けたのです。

しかしそのような環境でも彼はくじけることなく読書に邁進し、数万冊の本を読み20歳で朴齊家、柳得恭、李書九らと共に「巾衍集」という四家詩集を出しその名を世に示します。
また1766年には庶子出身の両班たちの文学同好会である白塔詩派の一員となり、北学派の実学者であった朴趾源、洪大容、朴齊家らと交際し多くの影響を受けます。
特に1778年には使臣とともに使わされる臨時の官職である書状官(記録官)となり清に行き、中国の山川、道理、楼台、樹木、鳥獣などに関する詳しい記録を持ち帰り中国に関する眼目をひろげるのに寄与しました。
また清の詩人であり学者でもあった 李調元、潘庭筠らと交流し考証学と関連した書籍を朝鮮に持ち帰り、北学論の発展にも貢献しました。

このように朝鮮の知識人として徐々にその名を高めていった 李德懋が初めて官職についたのは1779年のことでした。
当時の王、正祖がこの年、「庶孼許通節目」を公布し庶子出身者たちにも官職への道を開いたのです。
そして政治改革の蚕室として作られた奎章閣の検書官に抜擢され書籍の校正と書写など、学問研究の核心的な役割を果たします。
まさに本好きだった彼にピッタリの職で書庫に積まれた本を整理し、 「國朝寶鑑」、「大典通編」、「武藝圖譜通志」などの本の編纂に寄与しました。
正祖の信任を得た 李德懋はその後も司䆃寺主簿、積城縣監、司饔院主簿などの役職を歴任し1793年に疾病で死亡しました。
庶子に産まれるという身分的な差別の中でも一日もその手から本を放すことなく学問の道に邁進した 李德懋は膨大で多様な知識を積み上げることで王の尊敬を受け、当時の知識人の進むべき道を示したのでした。


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