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歴史

李元翼

2013-01-03

李元翼
最近出版された本で朝鮮時代全体を通じて選んだベスト内閣で
国務総理に選ばれたのが宣祖のときの名臣、 梧里・李元翼(イ・ウォンイク)でした。
数多くの人材の中で彼が最高の官吏に選ばれた理由は何でしょう。

李元翼は朝鮮時代第3代王の太宗の息子、 益寧君錙を先祖として1547年、
現在の鍾路区に生まれました。
17歳で成均館に就学し5年後の1569年文科に合格し、翌年承文院の副正字として官職生活を始めます。その後、35歳まで会計を担当する戶曹、儀礼を担当する禮曹、法律を担当する 刑曹、王様の諮問に答える弘文館の應敎などの官職を経験します。
その後、5年ほど官職を離れた時期がありましたが、1587年に黄海道安州の牧使に任命され、官職に復帰します。そしてその時に彼は糧穀1万石を国に請願し、それで飢餓に陥った領民を救い、さらに民に種子を与え豊作を成し遂げます。さらに桑を植えて養蚕をする方法を領民に教え、このときの功により彼は民衆から「李公桑」 李元翼によって開発された蚕桑という意味の別名をもらいます。

そして中年以後の李元翼は壬申倭乱(文禄・慶長の役)という激動の時代を迎え、
国と運命を共にします。
1592年に壬申倭乱が起きると彼は平安道の都巡察使となり王の避難の護衛の役割を務め
翌年には平壌奪還作戦の功労をたてて平安道の観察使となります。
1608年に光海君が即位すると、現在の総理にあたる領議政となり戦乱後の復興と民生の安定に尽くし、大同法を制定します。これはそれまで各種産物で行われていた貢物を米に統一したものです。さらに地主の税負担を強化し、庶民の負担を減らす納税制度を実施しました。

その後も度重なる政乱のたびに官職を辞し、その後また呼び戻され、結局その生涯に5回も領議政となりますが、その私生活は清廉潔白そのもので、家は藁葺き屋根の家だったといいます。
1634年、87歳でその生涯を終えるまで安貧楽道を実践したのでした。

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