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歴史

金東里

2013-06-20

金東里
金東里(キム・ドンリ)は、日本による植民支配されていた時期を前後して、右翼傾向の民族文学論を主張し、伝統文化をモチーフにした作品を書いた、韓国を代表する小説家です。「巫女図」、「駅馬」、「等身仏」など、数々の名作を書き残した金東里は「最も韓国的な作家」と評価されています。最近、韓国の文学界では、今年、誕生100周年を迎える小説家、金東里に関する追慕事業が活発に進められています。

金東里の本名は金始鍾(キム・シジョン)。1913年、慶尚北道(キョンサンブクド)慶州(キョンジュ)で生まれた金東里の家は裕福な方ではありませんでした。幼い金東里は勉強よりは野山で遊ぶのが好きな子で、後に書かれた彼の作品には子どもの頃遊んでいた故郷の自然が溶け込んでいます。

小学生の頃から文学に素質があると認められた金東里は、ソウルの儆新(キョンシン)高校に進学しますが、経済的な理由などで卒業できないまま中退します。その後、彼は読書に没頭し、哲学、世界文学、東洋の古典など大量の本を読みあさりました。後に韓国を代表する作家となった金東里に大きな影響を与えたのは、漢学者であり東洋哲学者でもある兄の金凡父(キム・ボムブ)でした。

金東里は1929年に発表した詩「孤独」で知られるようになりました。5年後の1934年、詩「白鷺」が朝鮮日報の「新春文芸」で入選し、金東里は作家としてデビューします。翌年、中央日報の新春文芸で「花郎の後裔」が当選、その後、1940年まで「黄土記」「剰余説」「イバラの花」などを次々と発表しました。彼の代表作である「巫女図」は巫女の母親とその子どもたちの間に起きる家族と宗教の葛藤を描き出した小説です。金東里の母親は熱心なキリスト教の信者で、その影響で金東里も教会に通っていたのですが、「巫女図」にはこの時期の経験が溶け込んでいます。「巫女図」には、「花郎の後裔」を書いた後、韓国が日本による植民支配から解放されるまでの時期に書かれた金東里の短編小説21作のうち8作がいっしょに載っています。その後、「巫女図」は数回の修訂を経て、1978年、長編小説「乙火(ウルファ)」として発表されました。

金東里は1940年代後半、新聞社の編集局長として働いていた時期にも作品活動を続けました。この時期の彼の作品は解放直後の韓国の様子や家のない人々の哀歓などに触れています。同じ時期に書かれた作品は、主に植民支配下で韓国民族が感じた悲しさ、そして韓国戦争による貧困と苦痛を描き出し、その原因を社会や制度にあるとし、それでも運命を切り開いていかなければならないと訴えています。一方、金東里の作品に登場する主人公たちは黙々と時代の痛みを受け入れ、宗教の力でこれを克服していきます。そのため、金東里は、解放後の韓国民族の姿を生き生きと描き出した「最も韓国的な作家」と評価される一方で、人生を神話や呪術に委せてしまう非現実的な作家という評価も受けています。

金東里は75歳になった年にも長編小説「自由の歴史」や随筆集「愛の泉は至る所に湧き出し」を発表するなど、情熱的な作品活動を続けました。しかし、1990年、脳卒中で倒れ、5年後にこの世を去りました。


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