メニューへ 本文へ
Go Top

ライフスタイル

北韓兵士帰順の歴史

2017-11-22

玄海灘に立つ虹

北韓兵士帰順の歴史
先週13日に板門店のJSA共同警備区域を通じて北韓の兵士が一人亡命して来ました。そこで今日は北韓兵士の亡命の歴史について振り返ってみたいと思います。韓国語では귀순(帰順)と書きますが、これは意味としては脱北と同じことですが、主に北韓の軍人の脱北を韓国では帰順と呼んでいます。

1983年2月25日金曜日の午前、ソウルをはじめとする首都圏では警戒警報のサイレンが鳴り響きました。北韓のミグ19戦闘機が西海の軍事境界線を越えて韓国側に南下してきたからです。その日は韓米合同軍事演習の訓練中であり、哨戒飛行中だった韓国側の戦闘機が迎撃体制にはいると北韓のミグ19は翼を揺らせて投降の意志を表しました。乗っていたのは朝鮮人民軍のイ・ウンピョン大佐でした。彼はインタビューで

「三養ラーメンの袋を見て脱北を決心しました。偶然、東海岸で流れ着いた三養ラーメンの袋を拾いそこに書いてあった『販売や流通過程で変質・破損した製品は販売店や本社代理店で交換します』という文句と見て、小さなこと一つでも人民のことを考えている南韓社会にあこがれるようになりました」

と語っています。北韓の将校が、それも戦闘機まで持っての帰順です。当時の全斗換政権は大歓迎し、ヨイロ広場で大規模な歓迎大会まで開きます。大会に集まった人は130万人、政府は彼に住宅2軒と共に15億ウォンの定着支援金を渡しました。
その後、空軍士官学校の教授の娘と結婚しますが、彼の妻はこんなことも語っています。

「北に残してきた家族のことを思い苦しんでいました。また毒物に変色するという銀製品を使い、隣人がくれた餅や配達された牛乳は飲まないようにと言っていました。極度に神経を尖らせて周りの人のことを疑っていました」

イ・ウンピョンさんは2002年に持病で亡くなりました。1990年代にも戦闘機に乗って帰順してきた兵士はいました。1996年5月23日に帰順したイ・チョルス大尉です。イ大尉は

「 地獄のような社会でこれ以上生きることはできなかった」

と帰順の理由を語っていますが、人事上の不満もあったようです。彼もやはり定着金として4億7800万ウォンの支援金をもらい、韓国空軍に入隊しています。帰順は空からだけではありません。ノックの帰順で有名になった人がいます。

2008年4月27日京畿道パジュの最前線のGP警戒哨所のドアをノックして帰順してきたのが、北韓軍15師団のイ・チョルホ中尉です。その後はテレビなどにも出演し北韓社会の実態を伝え有名になります。2012年に同じ脱北者の女性と結婚し、子供も生まれますが、職場になじめず、 2013年にベルギーに移民しますが詐欺にあい全財産を失い妻とも別れることになります。2014年、離婚訴訟中だった妻と争い、彼女の首を絞めて殺そうとし、現在は殺人未遂の罪で2年6ヶ月の実刑を受けています。

命がけで帰順をしてもその先に必ず幸せが待っているというわけではないようです。

おすすめのコンテンツ

Close

当サイトは、より良いサービスを提供するためにクッキー(cookie)やその他の技術を使用しています。当サイトの使用を継続した場合、利用者はこのポリシーに同意したものとみなします。 詳しく見る >