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ライフスタイル

北韓とオリンピック

2018-01-03

玄海灘に立つ虹

北韓とオリンピック
ニュースでもお伝えしていますが、北韓の金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長が新年のあいさつで、「2月の平昌冬季オリンピックに代表団を派遣する用意があり、このため南北当局が会うこともできる」と述べたことを受け、韓国国内では歓迎の声が上がっています。

そこで今日の社会面では北韓とオリンピックの歴史を振り返ってみたいと思います。今回北韓が参加することになれば平昌オリンピックは北韓にとって9度目の冬季オリンピックとなります。

最初の参加は1964年のインスブルックオリンピックでした。この大会は北韓に最初の冬季オリンピックのメダルをもたらした大会でもありました。

インスブルックオリンピックに北韓はスピードスケートとクロスカントリースキーなどに13人の選手を派遣しました。そして女子スピードスケート3000メートルに出場したハン・ピルファ選手が銀メダルを獲得しました。ハン・ピルファ選手は、五輪の女子スピードスケートでメダルを獲得した初のアジア選手となりました。その後、ハン選手は1990年の札幌冬季五輪に北韓スケート連盟書記長として参加し、このとき、韓国に住んでいた実兄のハン・ピルソン氏と劇的に再会しました。

北韓が冬季オリンピックで獲得したメダルはこれまでに銀メダル1つと銅メダル1つの2つだけです。1つ目が先ほどのハン・ピルファ選手の女子3000メートルスピードスケート、ではもう一つは何かというと、

北韓の二つ目のメダルは1992年のアルベールビル・オリンピックで出ました。女子ショートトラック500メートルに出場したファン・オクシル選手が銅メダルを獲得したのです。当時決勝でファン選手は終始先頭を走り、北韓に史上初の金メダルをもたらすかのように見えましたが、最後の1周を残してコーナーでバランスを崩し、結局銅メダルに終わりました。

北韓はこれまでもオリンピックを政治的な手段として活用してきました。1964年の 東京オリンピック当時、北韓は144人の選手団を日本に派遣しました。しかし競技に参加した選手は一人もいませんでした。なぜでしょう。

当時、韓国は「Korea」と国名が表記されましたが、北韓は「 North Korea」と表記され、これに反発し大会開幕直前に選手団を引き上げさせたのです。北韓は「 DPRK(Democratic People’s Republic Of Korea)」と表記するようIOC(オリンピック委員会)に求めていました。

結局、北韓は1972年のミュンヘンオリンピックから「 DPRK」を使用できるようになりますが、その前の1968年のメキシコオリンピックもやはりこの問題で大会開催直前に選手たちを引き上げさせています。
1980年代に入るとソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し韓国、アメリカ、中国などが1980年のモスクワオリンピックをボイコットした時、北韓は参加し銀メダル3個と銅メダル2個を獲得しました。そして4年後のロサンゼルスオリンピックには北韓はソ連と共に大会をボイコットし参加しませんでした。 続く1988年のソウルオリンピック、

北韓は当初は開催地の変更を主張、その後南北での共同開催を主張します。IOCは共同開催は認めず、一部種目の分散開催は可能だという方針を示しました。これに対し北韓は23の種目のうち8種目を北韓で開催し、大会の名称も「ソウル・ピョンヤンオリンピック」にしようと主張します。1985年から87までの3年間で4回、南北間で会談が行われましたが結論はでず、最終的に北韓はソウルオリンピックに参加しませんでした。

北韓は夏のオリンピックは1972年のミュンヘンオリンピックから参加しこれまでに合計10回、そして冬のオリンピックは1964年のインスブルックオリンピックから合計8回参加してきました。平昌オリンピックにも参加することになるのか。大会開催まであと1ヶ月を残しての参加宣言、ではどの種目に、どの選手がでるのか。開会式での韓国との共同入場は実現するのか、美女応援団は来るのか、まだまだ話題はつきそうにありません。

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