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ピープル

バレリーナ、ソ・ヒ

2016-07-26

パリ・オペラバレエ団、イギリスのロイヤルバレエ団とともに「世界3大バレエ団」の一つに数えられるアメリカン・バレエシアター。アメリカン・バレエシアターは頭文字を取ってABTと呼ばれています。世界有数のすぐれたバレエ団というだけあって、ABTにはその実力を認められた100人あまりの団員が所属しています。しかし、舞台の中央で主役としてスポットライトを浴びるのは10人あまりに過ぎません。その中に韓国人としては初めてABTの主席ダンサーとなったバレリーナ、ソ・ヒさんが含まれています。

世界有数のバレエ団、ABTのプリマドンナとして活動しているソ・ヒさんが、バレエを始めたのは12歳の時でした。勉強だけではなく、音楽や運動も習っておく必要があるという両親のすすめでほんの趣味のつもりで近所のバレエ教室に通うことにしたのです。バレエを習い始めて1年くらい経ったある日、ソ・ヒさん通っていた小学校にソンファ芸術学校が主催するバレエコンクールに参加する生徒を推選してほしいという連絡がありました。校長先生の勧めでコンクールに出場したソ・ヒさんは初めてのコンクールで入賞しました。



コンクール入賞はソンファ芸術中学校への入学につながりました。しかし、芸術中学校で出会った友人たちはほとんどが幼い頃からバレエを習っていたため、ソ・ヒさんは実力の差を実感します。授業に追いつくためにはひたすら努力するしかないと思ったソ・ヒさんは誰よりも早く登校し、一番遅くまで残ってバレエの練習に励みました。幸いなことに、バレエ向きの体つきと才能を持っていたソ・ヒさんの実力はみるみる上達していきました。1年が経った2001年、14歳になったソ・ヒさんにもう一度思わぬチャンスが訪れます。アメリカのワシントンにあるキーロフ・バレエ学校の全額支給獎学生のオーディションに合格、アメリカへ留学することになったのです。

アメリカに渡ったソ・ヒさんは2003年、スイスのローザンヌ国際バレエコンクールで入賞し、ドイツ有数のバレエ団傘下のバレエアカデミーで学ぶ機会を与えられます。そして、2003年、もう一つの大きな舞台が16歳のソ・ヒさんを待ち受けていました。アメリカで開かれるユース・アメリカグランプリ。この大会の大賞受賞者にはABT=アメリカン・バレエシアターの付属学校で研修する特典が与えられるため、世界的なバレリーナを目指す若者たちにとっては夢の大会とされるユース・アメリカグランプリで、ソ・ヒさんは美しいダンスを披露し、大賞を受賞します。アメリカン・バレエシアターの付属学校で研修を受けていたソ・ヒさんは、2年後の2005年、ABT=アメリカン・バレエシアターの一員となりました。

ほとんどのバレエ団にはダンサーの階級制があります。もっとも低いレベルは大勢で一緒に踊るダンサー、コール・ド・バレエ、ここで実力を認められるとソリストとなり、ソリストの中から主役を踊るプリンシパルが選ばれるのです。しかし、入団したばかりのダンサーはコール・ド・バレエにも参加することができませんでしたが、ソ・ヒさんはプリンシパルのダンスを見守り、学びながら練習を怠りませんでした。そして、瞬く間に時間が流れ、4年が経った2009年のある日、コール・ド・バレエだったソ・ヒさんは「ロミオとジュリエット」の公演でいきなり主役に抜擢されます。ジュリエットとして渾身のダンスを披露した彼女は、1年後の2010年、ABTのソリストになりました。そして、ソリストになったソ・ヒさんはバレリーナの夢の舞台とされる「白鳥の湖」で主役のオデット姫を演じるなど、着実に実力を認められ、2012年、ABTの主席ダンサー、プリンシパルになったのです。

ABTのプリンシパルとして、忙しい毎日を送っているソ・ヒさんが、最近、韓国を訪れました。長い時間と努力で韓国誘致を実現させたユースアメリカ・グランプリの予選大会を進めるためでした。ユースアメリカ・グランプリの予選大会を韓国に誘致することで、バレリーナを目指す韓国の若者たちの経済的な負担を少しでも軽くし、世界的なバレリーナにレッスンを受ける機会を与えたいと考えたのです。

バレエを習い始めて18年、世界的なバレリーナに成長したソ・ヒさんは、テクニックで認められるナレリーナより、観客の心を動かすバレリーナ、そして、自分と同じ道を歩もうとする若者たちに良い影響を及ぼすバレリーナとして残りたいと語っています。

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