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旅行

朝鮮王朝最高の王宮、景福宮

2010-07-13

朝鮮王朝最高の王宮、景福宮
ソウルの都心、鐘路区(チョンノグ)世宗路(セジョンロ)には朝鮮王朝の歴史が息づいている王宮、景福宮(キョンボックン)があります。その正門である光化門(クァンファムン)と景福宮の中心といえる建物、勤政殿(クンジョンジョン)の門、勤政門の間には中門の興礼門(フンリェムン)があり、興礼門前の広場では毎日午前10時から午後3時まで、1時間おきに厳かな雰囲気のイベントが開かれています。このイベントはその昔、城門を守っていた兵士たち、守門将(スムンジャン)の交代儀式を再現しているもので、ソウルの王宮観光のハイライトになっています。

守門将が守る門を通って、500年あまりにおよぶ朝鮮時代の歴史をとどめた景福宮に入ってみましょう。朝鮮王朝を建国した太祖・李成桂(イ・ソンゲ)は朝鮮王朝の都を漢陽(ハニャン)、現在のソウルに定め、地理的な面や風水学などを考えて、漢陽で一番良い土地を選び、1395年に景福宮を建てました。500年におよぶ朝鮮王朝の華麗な文化と歴史は、景福宮を中心に始まり、発展しました。景福宮はいわば朝鮮王朝のシンボルだったのです。

朝鮮王朝のシンボルだった王宮、景福宮は500年にわたって朝鮮王朝がくぐってきた数々の試練も共にしてきました。1592年、日本の豊臣秀吉によって起きた壬辰倭乱、日本でいう文禄・慶長の役で景福宮境内にあった建物はほとんど焼失してしまいます。そしてその後、273年あまりにわたって景福宮は廃虚のように見捨てられていました。朝鮮時代末期、朝鮮王朝26代目の王、高宗(コジョン)が即位すると、王の父で、当時大きな権力をふるっていた興宣大院君(フンソン・デウォングン)は王権を強化するために、そのシンボルとして景福宮を再建しました。再建された建物も日本による植民地時代に取り壊されたりして損なわれてしまいました。かつて、景福宮の境内には330棟あまりの建物があったのですが、戦乱と植民支配などを経て、昔の面影は失われてしまいました。それでも、景福宮は依然としてソウルの中心であり、ソウル観光に欠かせないコースなのです。

景福宮ツアーは国の大きな行事が行われていた勤政殿(クンジョンジョン)からスタートします。勤政殿は景福宮の正殿で、王の即位式、世継ぎの王子を決める儀式、王妃を迎えるなどの儀式など、大きな行事が行われていた場所です。正門の光化門と中門の興礼門を通って、美しい橋、永済橋(ヨンジェギョ)を渡る、王の御輿が通っていた鳳凰が刻まれた階段がある門、勤政門があります。この門はくぐると、正面に国宝第223号に指定されている勤政殿があるのです。勤政殿の内部を見ると王と国を象徴する建物らしく内部の床には平らな石が敷かれ、2階まで吹き抜けの天井になっていて、北側の中央に王座があって、王の威厳を漂わせています。

勤政殿の裏にある思政殿(サジョンジョン)は王の執務室といえます。王は毎朝、ここで学者たちと朝会を行って、さまざまな報告を聞き、1日に3回儒教の経典を読み、国政を論じていました。思政殿では毎日午前11時、朝鮮時代の朝会が再現されています。思政殿の北にある向五門(ヒャンオムン)をくぐると、王の寝殿であり、生活空間である康寧殿(カンニョンジョン)があります。その昔、韓国では長寿、他人の物を欲しがらないくらいの富、健康、他人を同情する哀れみ、この世を去る時に楽に往生できることを大きな5つの福と見なしていました。中でも健康は一番と見なされ、王の寝殿にも王の健康を祈願する意味を込めて康寧(カンニョン)という名前がつけられました。

康寧殿(カンニョンジョン)の北にある門、両儀門(ヤンウィムン)の向こうには王妃がとどまっていた交泰殿(キョテジョン)があり、その裏には美しい庭園が広がっています。また、王がとどまっていた康寧殿の西には大きな池があり、この池には国宝第224号に指定されている美しい樓閣、慶会楼(キョンフェル)がたたずんでいます。慶会楼は王が外国からの使者を謁見したり、大きな祝い事があった時に宴を開いたりしていた場所です。

景福宮にはこの他にもさまざまな歴史や美しさを秘めた建物がたくさんあります。また、王や王妃が散歩していた道を歩いたり、伝統衣装を着て記念写真を撮ったりすることもできます。朝鮮時代には一般の人には遠い世界だった王宮。景福宮の境内を歩いていると、奥深くに秘められていた朝鮮王朝の歴史と文化、そしてその美しさを堪能することができます。

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