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旅行

朝鮮時代から現在までのソウルの歴史を象徴する光化門広場

2010-07-20

朝鮮時代から現在までのソウルの歴史を象徴する光化門広場

ソウルの都心、世宗路(セジョンロ)には去年8月1日にオープンした光化門(クァンファムン)広場があります。ここは両側16車線の大通りだったところで、この大通りを10車線に減らして、道路の中央に「朝鮮の歴史を抱いたヒト中心の広場」をテーマにした、幅34メートル、全長557メートルの細長い形の広場を作ったのです。噴水や美しい花壇が作られ、さまざまなイベントが開かれる光化門広場には1日平均5万人が訪れています。

光化門広場が作られた世宗路は朝鮮時代から600年あまりにわたって韓国を象徴する街でした。朝鮮時代、この一帯には6つの中央官庁、六曹(ユッチョ)があったことから「六曹通り」と呼ばれ、朝鮮時代には行政の中心となっていた地域でした。六曹通りは王宮の前にある大通りだったのですが、それだけではなく、王と臣下、そして平民が交わる広場のような空間でもありました。光化門広場はこうした六曹通りの歴史と景福宮からその裏にそびえる北岳山(プガクサン)まで続く、ソウルを象徴する景観を活かそうと造成した広場です。昔の建物を見ることはできませんが、光化門広場は舖装のパターンに変化を与えて、朝鮮時代、六曹通りだったエリアを紹介し、重要な建物があった場所にはその内容を記した石が設けられています。

全長557メートルの光化門広場の魅力を満喫するための短い旅は光化門からスタートします。朝鮮王朝の王宮、景福宮(キョンボックン)の正門である光化門は広場の北にあります。景福宮を建てた時に作られた光化門は、朝鮮時代に起きた壬辰倭乱、日本でいう文禄・慶長の役当時に焼失しました。その後、1864年に再建されましたが、これも韓国戦争で燃えてしまい、1968年にはコンクリートの門に取り替えられました。現在、昔の光化門を再現する工事が進められていて、来月、8月15日に終わる予定です。

広場の両側には幅1メートルの水路が作られています。静かに流れている水の中をのぞいて見ると、水路の底に文字が刻み込まれている黒い石が敷かれています。この石には朝鮮王朝が建国されてから最近に至るまで、韓国の主な歴史が年度別に記されています。水路に沿って歩いていると、目の前に高さ6.2メートル、幅4.3メートルの大きな銅像が飛び込んできます。朝鮮王朝27人の王の中で韓国の人たちに一番親しまれ、尊敬されている王、世宗(セジョン)大王の銅像です。朝鮮王朝4代目の王である世宗大王は韓国固有の文字、ハングルを作り、科学や文化、芸術も発展させ、朝鮮王朝の基盤を築いた王と称えられています。銅像の前には世宗大王の時代に作られた天文時計の渾天儀(こんてんぎ)や降水量を測定するための測雨器、日時計、ハングルを象徴する造形物が展示されています。また、銅像の後ろにあるドアから入って、地下2階にいくと、「世宗物語」という案内板の向こうに展示空間があって、世宗大王の生涯と業績を紹介しています。

光化門広場から世宗路四つ角方面に歩いていくと、今度は朝鮮時代の名将と称えられる李舜臣(イ・スンシン)将軍の銅像が現れます。1592年、日本の豊臣秀吉によっておきた壬辰倭乱当時、李舜臣将軍は23戦23勝の大勝利をおさめた名将です。いつも大軍を相手に堂々と戦い、54歳で戦死するまで、すべての戦いを勝利に導いた韓国の英雄です。李舜臣将軍の銅像が立てられたのは1968年。それから42年間、李舜臣(イ・スンシン)将軍は生前と同じく激動の波にさらされてきた韓国を見守ってきたのです。

景福宮の正門、光化門からスタートし、外敵から国を守るために命を捧げた李舜臣将軍の銅像まで、全長557メートルの光化門広場には朝鮮王朝の都、ソウルの歴史が凝縮されているのです。

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