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特別番組

第1部「ホンさん家(け)の人たち」

2015-01-02



韓国と日本の国交正常化を目的とする「韓日協定」が結ばれて50年めになる、2015年が明けました。しかし、歴史問題などによって、両国の関係は依然として冷え込んでいます。両国の冷え込んだ関係にもかかわらず、韓国人と日本人が一つになって暮らしている街があります。大阪生野区です。

日本語と韓国語が共存する街、生野区の人口はおよそ13万人。そのうち、韓国人の数は2万6千人あまり。日本最大の在日韓国人居住地域です。日本による植民地支配が始まると、韓国人たちは賃金の低い労働者として生野を訪れました。大阪に渡ってきた韓国人たちは日本人から蔑まれ、家を借りることもままなりませんでした。ところが、生野は水害の多い低湿地だったため、日本人に人気がなく、韓国人が家を借りやすかったことが生野にたくさんの韓国人が根を降ろす要因となりました。

生野に定着した韓国の女性たちが働ける場所がなく、夫の賃金だけでは貧しい暮らしから抜け出すことはできません。そこでタンポポやセリなどを摘んで韓国風の和え物のナムルやキムチを作って売りはじめました。鶴橋公設市場から歩いて5分ほどの所にある路地裏に韓国の女性たちが出した露店が並びました。そして、1930年代に入ると、この朝鮮市場は1日2万人の韓国人が訪れるほどになりました。

1945年8月15日。生野の韓国人にも待ち焦がれていた祖国解放の知らせが届きます。当時、日本には2百万人の韓国人が暮らしていました。祖国、韓国が日本による植民地支配から解放されたという知らせを聞いた韓国人たちは韓国行きの船に乗るため、港へ向かいました。ところが、当時、日本を統治していた国連軍の最高司令部は韓国へ向かう人が所持できる貨物は一人当たり114キロ、現金は千円に制限する搬出禁止令を出したのです。韓国人たちはあくせく働いて集めた財産を韓国に持ち帰ることを許されず、60万人の韓国人が帰国を断念します。これが在日韓国人が生まれたきっかけでした。

戦後の日本に残った韓国人たちは、商売をあきらめる日本人の店が続出した生野の商店街に店を出しはじめました。コリアタウンとも呼ばれるようになった御幸通りの商店街。朝鮮市場が大勢の韓国人でにぎわうようになりました。しかし、韓国人が集まると、周りの日本人は生野を警戒し始めました。朝鮮市場は目に見えない壁に囲まれたように見えました。こんな時、目に見えないこの壁を取り壊すために
動き出した人物がいました。奥さんのカン・アンジャさんといっしょに現在の徳山物産を創業した初代会長のホン・ヨピョさんでした。

韓国と日本、両国の政府が今だに見つけられない共存の道を、個人の力で作り出すことは不可能に近いことでした。実現不可能に見えた韓日共存の道。意外なことにその可能性が見えはじめたのは1980年代の朝鮮市場の衰退がきっかけでした。客が減り、朝鮮市場がある御幸通り商店街はシャッターをおろし閉店する店が続出しました。ホン・ヨピョさんは、生野に「コリアタウン」を作り、在日韓国人と日本人が共生できる街、面白い街、魅力的な街としてアピールしようという意見を出しました。横浜の中華街のようなコリアタウンを作ろうというホンさんの意見に、強い反対の声があがりました。この問題を解決するために吉村けんいちさんが「コリアタウン推進委員会」に合流します。在日韓国人の店主とも日本人の店主とも親しい関係を保っていた吉村さんの合流は、互いの疑いと偏見をなくしました。コリアタウンの構想は実現に向けて最初の一歩を歩み出すことができたのです。生野の人たちの理解と努力が実って1993年、生野にコリアタウンが誕生します。

今や、生野コリアタウンは多くの観光客が訪れる大阪の観光スポットの一つになりました。商店街全体が活気を帯びています。しかし、コリアタウンを企画したホン・ヨピョさんの娘や息子は現状に満足せず、未来に向けて、文化を通じての韓日交流を目指しています。

このように生野の人たちは、心を一つにして不可能に見えた、本当の意味の共生を実現させました。生野の人たちが選んだ共生の道。これが、関係改善を願う韓国と日本、両国が探していた答えなのかも知れません。

そして、そんな生野で開かれる生野コリアタウン祭り。生野の人たちはこのお祭りを通して、共に生きていく、もう一つの共生を実現しています。明日のこの時間は、生野コリアタウン祭りと生野の人たちについて迫ります。



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