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歴史

歌で表した光復の喜び

2015-01-06

歌で表した光復の喜び
1945年8月15日の正午。ラジオの放送を通じて、日本の降伏を表明する天皇の声が流れました。この放送によって日本の植民地となっていた韓国は待ちに待った解放、光復を迎えました。

1941年に発表された「黎明(れいめい)の歌」。「木槿(むくげ)の山河に春が来た」というフレーズが印象的なこの歌には、祖国の独立を待つ韓国人の切実な気持ちが込められています。日本による植民地時代における韓国人の暮らしは歌で慰めるしかないほど、屈辱的で、かつ悲惨なものでした。特に、戦争が終わりに近づくにつれて、その被害は人的にも物的にも大きくなり、日本による徴兵、軍属、公務員などさまざまな理由で徴集された人は多く、その数を合わせると150万人あまりにもなります。1944年当時、韓半島の人口はおよそ2千5百万人。人口のおよそ6パーセントが日本による強制動員の被害者だったことになります。
植民地支配によって、財産だけではなく、国も言葉も失ってしまった韓国、当時の朝鮮の国民。しかし、彼らは最後まで祖国をあきらめませんでした。国を取り戻すための独立運動と抗日活動は光復の瞬間まで続けられました。

光復が実現した後、韓国社会は植民地時代の残滓(ざんし)を落とし、韓国人としてのアイデンティティを取り戻すために動き出します。もっとも足早に動き出したのは大衆文化でした。祖国の解放を祝う最初の歌として知られる「四大門を開け」。1945年8月に発表されたこの曲からは光復当時の喜びがひしひしと伝わってきます。「四大門を開け。鐘を鳴らせ。5千年の地に夜明けが来る。労働者よ、農民よ、青年学徒よ、新たな世の中は私たちのもの。前へ前へ」という歌詞からも新しい世の中に対する人々の感動と期待、そして希望を垣間見ることができます。光復によって活気を取り戻したのは、音楽だけではありません。植民地支配によって失われていた韓国の言葉と文字、歴史を復活させる作業も活発に進められました。韓国語の新聞や雑誌が復活し、学校では一斉にハングルと韓国語の授業が行われました。

また、光復とともに、日本によって、軍人として、工場や鉱山の労働者として海外に連れていかていた韓国人が続々と祖国に帰ってきました。祖国に戻ってきた感動を歌った歌謡曲「帰国船」は、大衆の心を打ち、解放後に最初のヒット曲となりました。「帰ってきた、帰ってきた、故国の山河へと。どれだけ描いたことか、木槿(むくげ)の花を。どれだけ叫んだことか、太極の旗を。カモメよ、笑え。波よ、踊れ。帰国船の船先に希望が膨らむ」。韓国を象徴する木槿や太極旗(テグッキ)を心行くまで歌える世の中になったというメッセージが込められた歌でした。

韓国人らが願ったのは、朝鮮の完全無欠の独立でしたが、完全な独立は実現しませんでした。アメリカと旧ソ連は韓半島に駐屯している日本軍の武装を解除するという名目で北緯38度線を中心に軍事境界線を作り、南と北に自らの軍隊を駐屯させたのです。時の流れとともに、単純な軍事境界線だった38度線は、その後は政治的な境界線となり、一つだった国を分断する境となりました。

1947年末から48年始めにかけて発表された曲「行け、38線」は当時の人たちに大きな人気を集めました。「山に遮られて来れないのか、川に遮られて来れないのか」という歌詞は分断された韓半島の現状を嘆く内容です。光復の喜びを歌った「希望、三千里」といっしょに発表されましたが、「行け、38線」の方がヒットしたのは分断に対する憂いが大きかった当時の人々の気持ちの現れでした。

36年にわたる植民地支配から解放された喜びもつかの間、他の国によって設められた軍事境界線によって韓国社会は再び混乱の渦に巻き込まれました。しかし、さまざまな困難を乗り越えて、祖国の光復を迎えた韓国の人たちはもう一度立ち上がります。分断の衝撃は、強い国を作りたいという熱望につながり、この熱い願いが、今日の韓国を導いてきた希望の旗となったのです。

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