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歴史

朴提上

2012-03-15

<b>朴提上</b>
朴提上(パク・ジェサン)は歴史に残る新羅時代の忠臣です。
「三国史記・列伝」の中に書かれた「朴提上伝」によりますと、朴提上は新羅の始祖である朴赫居世(パク・ヒョッコセ)の子孫であり、363年に生まれたとあります。
幼い頃から智に長けており、周囲の期待を受けて育ちます。
そして官位に就き、地方の歃梁州にいた時のことです。
新羅第19代王の訥祗(ヌルチ)王は朴提上に都に戻るよう命じ、朴提上にこんな悩みを打ち明けます。
それは高句麗と倭(日本)に人質として連れて行かれている二人の弟のことでした。

訥祗王の父の奈勿(ネムル)王(新羅第17代王)は392年に、従兄弟の實聖(シルソン)を高句麗に人質として送り出しました。
この時代の高句麗は、広開土(クァンゲト)大王の時代で、まさに高句麗の絶頂期でした。
そのためいつ南下してくるか分からない強大国に対応するために新羅は王族を人質として差し出していたのです。
そのため10年にわたり高句麗で不安と恐怖の中で人質生活をした實聖は401年に帰国し、翌年に王位に就きます。
まだ訥祗王が幼かったことから、叔父の實聖が王位に就いたのです。
そして實聖は王位につくと、 訥祗王の弟の未斯欣(ミサフン)を倭に、卜好(ボクホ)を高句麗にそれぞれ人質として送り出しました。
その後、王位についた訥祗王は異国に人質に出した弟たちのことが気になり、朴提上を呼んだのでした。

朴提上はまず高句麗に向いました。
418年に高句麗に使臣として赴いた朴提上は、長寿(チャンス)王と対面し、「大王が人質を帰してくださるなら、それは九牛一毛のように高句麗の大王にはなんの損にもならないばかりか、我が新羅の王は高句麗の王のことを心から褒め称えることでしょう」と説得したのでした。
これで20年間、高句麗で人質生活を送っていた卜好を見事連れ帰るのに成功します。

次に朴提上は日本に向いました。
説得に応じる相手ではないと見た朴提上は、倭に対しては一計をめぐらすことにします。
彼は「自分は新羅を裏切り日本に逃げてきた者だ」という噂を広めるようにと訥祗王に頼んでから日本に向ったのです。
案の定、噂を聞いた倭の王は彼の言葉を信じ、彼を信任します。
当時日本は、新羅が高句麗とともに攻撃してくるだろうという百済からの情報を聞き、新羅に先制攻撃をかけようとしていた矢先で、新羅の内情を良く知っている朴提上を攻撃の先鋒にしようとしました。
そして戦争準備の混乱の隙を見て彼は、10才の頃から30年間、人質となっていた未斯欣と会い、自分の本来の身分を明かすと、霧に隠れて未斯欣を船に乗せ、新羅へと脱出させます。
そして自らは、激怒する倭王の前に出て行き、こう告げます。
「私は新羅王の臣下です。我が王のために王子を助けに来ました。
 これで私の任務もすべて終わりました。さあ殺しなさい」
彼の堂々とした態度に打たれた倭の王は彼に「自分の臣下になれ」と勧めても彼は
「たとえ新羅の犬や豚になろうとも、倭国の臣下には絶対にならない」と言い、結局、厳しい拷問の末に処刑にされます。

彼の死を伝え聞いた訥祗王は、祖国に戻ってきた弟の未斯欣の妻に朴提上の娘を迎えます。
一方、朴提上の妻は夫を失った悲しさのあまり、遠くに日本が見える鵄述嶺(チスルリョン)という丘の上に立って慟哭し、そのまま岩になってしまいます。
また母と一緒に泣き叫んでいた3人の娘たちは鳥になり飛んで行ったと言います。
人々はこの岩を望夫石と呼んでいます。

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