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歴史

李孝石

2012-12-06

李孝石
1907年2月23日、江原道・逢坪に生まれた李孝石(イ・ヒョソク)は典型的な山村に育ち1914年に平昌公立普通学校に入学しました。
この頃、彼の住んでいた逢坪から学校のあった平昌までは100里、40km近い距離でした。この遠い道のりを彼は毎日歩いて通い、その時の体験が後に、名作「そばの花咲く頃」を生む土台となりました。
成績も優秀で秀才と言われた李孝石は1920年、京城第一高等学校に入学し、トルストイ、チェーホフなどのロシア文学を耽読し、文芸創作に関心を持つようになります。
そして1925年に高校を優秀な成績で卒業した李孝石は京城帝国大学予科に入学しコント「旅人」などを発表、文学の道を歩み始めます。

大学在学中の1928年に『朝鮮之光』に短編小説「都市と幽霊」を発表、文壇へのデビューを飾ります。
デビュー当時は一時、プロレタリア文学の影響の濃い作品を発表しますが、1932年に鏡城農業学校に英語の教師として赴任してからは暮らしの変化と共に作品も変貌していきます。
彼の作風として知られる純粋文学を追求するようになるのです。
若くて貧しい農夫の恋を描いた1933年作の「豚」を皮切りに「山」「野」「石榴」など、毎年10本あまりの短編と多くの散文を発表、土俗的な情緒を叙情的に表現した作家として注目を浴びます。

そして1936年に崇実専門学校の教授に就任、同じ年に彼の代表作となる韓国の短編小説の白眉 「麦の花咲く頃」を発表し、純文学を代表する作家と言われるようになります。
彼の文学のもう一つの特徴は詩的な表現を綴った小説だということです。
江原道の自然の中で幼少時代を過ごした彼の叙情的な純粋な心と植民地時代の作家の精神的な喪失感が彼の作品には反映しています。

文学に対する溢れる情熱で、新聞、雑誌、文芸誌など多様な媒体に多くの作品を発表し続けた李孝石でしたが1940年に妻と次男を相次いで病気で亡くし、本人も1941年から病の床につき、1942年5月25日、36歳の若さで夭折します。

しかし彼が世を去った後も、3度も違う出版社から全集が発刊されるほどその人気は衰えることを知りません。
また彼の叙情的な文章は1948年以後、中学・高校の国語の教科書に何度も収録されています。

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