メニューへ 本文へ
Go Top

歴史

姜邯贊

2012-12-20

姜邯贊
姜邯贊(カン・ガムチャン)は高麗時代の重臣で、契丹の高麗侵攻の際に国を救った英雄です。
姜邯贊は948年、現在のソウル市冠岳区にあたる衿州に生まれます。

彼の誕生に関してはこんな逸話があります。
彼の母が彼がお腹にいるときに空から大きな星がお腹に入る夢を見たというのです。
それで彼の家のあった場所は落星台と呼ばれ、現在でもソウルの人々の訪れる名所となっています。

このように星の機運を受けて生まれた姜邯贊は太祖王権を助けて高麗建国を助けた父、姜弓珍に幼い頃から文武を習いました。
しかし17歳でその父が亡くなり、その後は全国を歩き回り道を学ぶなど、心身の鍛錬に尽くしました。
そして36歳になった983年、科挙に合格します。

姜邯贊はもともと文官として官職に尽きます。
1010年、契丹が40万の大群を率いて西京に侵入してくると、彼は高麗王の顯宗を羅州に避難させるとともに王命を受けて外交文書を作成する翰林學士、判事の任務を担当する吏部尙書などの重職を歴任します。
そして1018年に内史侍郎と西京留守を兼任することになりますが、西京留守というのは単純な地方の行政官僚ではなく、軍事指揮権も行使する要職でこれは契丹の度重なる侵攻に備えるためのものでした。

当時契丹は高麗の北進政策と親宋政策に危険を感じ993年と1010年の二回高麗を侵攻していました。
そして1014年9月、契丹軍は10万人の兵士による三回目の侵攻を始めました。
これに対抗し高麗は 姜邯贊を最高司令官である上元帥に任命します。
当時 姜邯贊はすでに70歳を超える高齢でしたが知略と卓越した用兵術で興化鎮(現在の平安北道義州)の前を流れる川を牛革をつなげて作った幕でせきとめ契丹軍が川を渡ろうとした瞬間にせきを外して水を流し、契丹軍に大打撃を与えました。
そして逃げ出した敵を亀州で撃破し全滅に近い打撃を負わせます。
結局、この戦いで生き残った契丹軍は数千人に過ぎなかったといいます。
この時の功により 姜邯贊は1030年に高麗時代最高の官職であった門下侍中につきます。

その後、 姜邯贊は高齢を理由に官職を退き、1032年に84歳で亡くなります。
まさに韓国の歴史の中では珍しい、文武両方に長けた英雄でした。

おすすめのコンテンツ

Close

当サイトは、より良いサービスを提供するためにクッキー(cookie)やその他の技術を使用しています。当サイトの使用を継続した場合、利用者はこのポリシーに同意したものとみなします。 詳しく見る >